深谷忠記 津軽《つがる》海峡《かいきよう》|+−《プラスマイナス》の交叉《こうさ》 目 次  プロローグ  第一章 青函連絡船  第二章 夏泊《なつどまり》半島の死者  第三章 美緒への脅迫状  第四章 甘い殺人  第五章 屈折した怒り  第六章 +との交叉  第七章 函館・立待岬《たちまちみさき》  第八章 津軽海峡4時間の壁  第九章 完璧さの陥穽《かんせい》  第十章 名奇術師マリニの伏線  エピローグ  プロローグ  銀嶺書店は、東京・本郷にあった。地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅を出て本郷通りを東へ渡り、東大の赤門、正門とは反対方向へ二、三分歩いたところである。  七階建ての細いビルの五階と六階を借り、五階に営業部と総務部が、六階に編集部が入っている。各種の単行本やノベルズの新書、漫画週刊誌などを出している会社で、社員は三十数人。一般の企業からみれば小企業だが、一部の大出版社を除けば、出版社としてはそれほど小さなほうではない。  その日——ようやく残暑もおさまりかけた九月十七日、文芸書籍編集部長の小松崎学が昼食から帰ったのは、一時半過ぎだった。  彼は、窓際の自分の席にどっかと腰をおろすと、ベルトをゆるめ、三十八歳にしては出すぎた太鼓腹を突き出すようにして、体を椅子の背にあずけた。  デスクの大沢をはじめとする部下たちはいずれも外出中で、前の四つの机はがらんとしている。  小松崎は目を半分ほど閉じ、定食屋からくわえてきた楊枝で歯をせせり始めた。昨夜は校了の仕事が重なり、眠い。ここから御徒町《おかちまち》のほうへ七、八分歩いた湯島のホテルへ行き、布団に入ったのが、午前二時近く。それでいて五時半に起き、今朝一番の東北新幹線に乗る部下の弘田辰夫を上野駅まで見送ったのである。  弘田はいいと断わったが、見送るつもりで彼とホテルに泊まったのだし、部下が眠い目をして起きて行くのに、自分だけが寝ているわけにはいかなかったのだ。  小松崎が知らず知らずのうちに手の動きを止め、とろとろしかけたとき、 「小松崎さん、電話」  と、呼ばれた。 「あ、ああ……」  彼が目を開けて返事をすると、隣りの並びの机で、週刊誌の女子編集部員が軽蔑したようにニヤニヤ笑っていた。 「弘田さんよ」 「サンキュー」  小松崎は椅子から上体を起こし、明かりの点滅している電話機のボタンを押して受話器を取った。 「部長ですか? 弘田です」  彼がもしもしと言いかけるや、聞き慣れた若い部下の声が言った。 「ああ」 「今朝はどうもすみませんでした」 「いや、そんなことはいいが……ええと、一時四十五分か……」  彼は腕時計を見て、「ということは、まだ函館に着くまでには二時間以上あるし、青函連絡船の上から?」 「いえ、まだ青森なんです」 「えっ、たしか十二時十分の連絡船に乗るんじゃなかったの?」 「その予定で部長にもご迷惑をかけて早起きし、やまびこ31号、はつかり3号と乗り継いできたんですが、青森でちょっと知った人に出会って」 「知った人? 僕も面識のある人かね?」 「ええ、まあ……」  なぜか、弘田が言葉をにごした。 「誰?」 「すみません、それは後でゆっくりお話ししたいんですが」 「そうか」  小松崎は、弘田がなぜ出会った人間の名を言わないのか、不審に思うと同時に少し腹が立った。が、しつこく訊くのも癪なので、黙った。 「すみません」 「うむ」 「というわけで、連絡船が一便遅れる旨、しばらくしてから高岡先生に部長から電話をいれておいていただきたいんです。二度かけたのですが、お留守なものですから」  高岡というのは、弘田が訪ねる予定になっている函館在住の女流推理作家、高岡沙也夏《たかおかさやか》のことだった。 「次の便というのは、函館に何時に着くんだ?」 「青森を三時ちょうどに出て、六時五十分に着きます。ですから、先生のお宅へは、七時ちょっと過ぎには伺えると思います」 「分かった」 「それじゃ、お願いします」  弘田の言葉を聞き、小松崎は受話器を置いた。  弘田のもったいぶった言い方に、多少のこだわりを残しながらも、午後の仕事にかかるため、腰を引いて座りなおした。  後で、小松崎は、 〈弘田を追及し、彼が青森で会った人間について何としても訊いておくべきだった〉  そう思って、悔む結果になるのである。  しかし、このときの彼には、部下の会った人間が誰かといったことなど、それほど重大な意味を持ってこようとは、もちろん想像できなかった。  第一章 青函連絡船     1  笹谷美緒《ささたにみお》は、到着ロビーからターミナルビルの外へ出た。ビルの色はブルー。小さいが、すっきりした空港である。車はけっこう駐まっているものの、あまりざわついた動きがない。  時刻は午後五時十五分。  美緒は、たった今、羽田からここ函館空港へ着いたところだった。  この空港には、これまでに二度降り立ったことがある。が、一人で来たのは初めて。そのせいか、夕方という時間的な条件のせいか、なんとなく遠くへ来た……という旅愁のようなものが胸に湧いた。  美緒は神田にある中堅出版社『清新社』の文芸部員である。今日は、彼女が今度新たに担当することになった女流推理作家・高岡沙也夏に会いに来たのだ。  待っていた連絡バスに乗ると、バスはすぐに海岸沿いの国道へ出、橋を渡って大きなホテルの前を通った。以前、恋人の壮《そう》と一緒に泊まったことのある、北海道屈指の温泉、湯ノ川温泉である。  恋人と温泉に泊まったなどと言うと、たぶん九十九パーセント以上の人が、一つの「事実」を想像するだろう。しかし、これが、壮という�宇宙人�の場合、当たらない。部屋は別々だったし、ある事件の謎を解くため、夜遅くまで、温泉街の暗い道を歩き回っていたのだから。  壮《そう》こと、黒江|壮《つよし》。職業は、水道橋駅に近い慶明大学の数学科教授をしている美緒の父・精一の助手。  数学者の娘なのに、かつて算数、数学と聞いただけで蕁麻疹が出た美緒に言わせると、数学などという陰気な仕事とはマッチしない、男性化粧品のモデルもつとまりそうな現代的なマスクをした美男子である。背もすらりとしている。  ただし、少し喋らないでいると腹がふくれて苦しくなってしまう美緒とは対照的に、無口で、真剣に考え始めると、誰がいようが、どこにいようが、何も見えず聞こえずのロダン、つまり「考える人」になってしまう、特技というか奇癖というか……の持ち主。  年齢は美緒より四つ上の二十八歳。美緒とは双方の親も認める恋人同士である。ところが、この宇宙人、世事にうとく、地球人の美緒たちにはチンプンカンプンの�暗号�と殺人事件の謎を解くとき以外はあまりにも不器用すぎて、いまだ二人の関係はキスの段階にとどまっている。  というわけで、この宇宙人といると、美緒は時々いらいらするが、惚れてしまったのが百年目……口の悪い友人たちには金魚の何とかのようだ、などと言われながら、いつもくっついて歩いている。  今度だって、来年の三月、青函トンネルの開通と同時に消えてしまう可能性の濃い青函連絡船に、一緒に乗りたかった。しかし、仕事に恋人同伴、というのではどこかの市長のようになってしまうので、仕方なく一人で来たのである。  美緒の乗ったバスは、しばらく走って啄木小公園の横をかすめると、間もなく海岸を離れ、大門と呼ばれる松風町、若松町の賑やかな通りを抜け、終点の函館駅に着いた。  さっき、飛行場の滑走路には夕陽が当たっていたのに、バスから降りると街の灯が明るく輝き出していた。  高岡沙也夏の家は山手の元町なので、ここでまた、バスか市電に乗り換えなければならない。  乗り場が一つで、市電のほうが分かりやすかったので、美緒は広場から出て、市電に乗り換えた。  地図で見たところ、軌道は、函館山へ登るロープウェイの山麓駅に近い十字街で、立待岬のほうへ行く線と岐《わか》れる。右に大きくカーブし、港を囲むように函館ドックの入口までつづいている。そして、その市電通りと直角に、函館山へ向かって、十本以上もの坂道がほぼ平行に伸びているのだった。  美緒は十字街の次の末広町で市電を降りると、その坂道の一本を登って行った。  元町や末広町といえば、かつては函館で最も賑やかな街だったらしい。だが、今は静かでひっそりとしていた。振り返ると、いつも坂の下に、港の対岸の灯を映した暗い海が覗いていた。  近くには、明治の末に建てられたという旧函館区公会堂や、日本最古のギリシャ正教会であるハリストス正教会、天主公教会などが、さらに西へ行けば、外人墓地や旧ロシア領事館などがある。他にも、明治の洋風建築などが残っており、エキゾチックな港街情緒ただようこの街は、函館山と組み合わさって、函館観光の目玉になっているらしい。  美緒は、坂の中途で右へ入った。  地図によると、高岡沙也夏の家はこのあたりのはずである。  沙也夏は、出身は東京だった。が、推理作家の登竜門と言われているホームズ賞に佳作入選して二年ほどした三年前、それまで住んでいた中野のマンションを処分し、昔から住みたいと思っていたという函館へ引っ越したのである。  本名、岡本邦子。年齢は三十四歳、独身。大学二年の頃、大学院生だった男と学生結婚したが、二年半後その夫が心不全で急死してから、一人暮らしをつづけているらしい。噂では、二人は熱烈な恋愛の末、親の反対を押しきって結ばれたらしく、彼女は今でも彼のことが忘れられずに独身を通しているのではないか、と言われていた。  沙也夏は、一般にはそれほど著名な作家というわけではない。が、ミステリーファンの間では、ここ一、二年とみに声価が高まっている。幻想的、耽美的でありながら、しかもトリッキーな作品、に挑戦しつづけているからだ。  耽美主義と謎解き——。これは、いわば水と油のような関係といえる。融合は非常に難しい。だから、彼女も、これまではいま一つトリック、謎解きの部分が弱かった。ところが、この四月に三沢書房から出した『殺人幻想曲・夢色』のトリックは抜群で、ある評論家をして「前代未聞、空前絶後」と言わしめ、残念ながら受賞は逸したものの、七月に選考会の行なわれた、今期�全日本ミステリー大賞�の候補作にノミネイトされた。  そこで、これまで様子を見ていた美緒の勤める清新社も、彼女に書き下ろしを頼むことになったのである。  四、五分探し、美緒は門柱に「岡本(高岡)」の表札を見つけた。  大きくはないが、芝生の庭のついた、白いしゃれた洋館だった。ガス灯を思わせる門灯だけが黒で、鉄の門扉も白。さらに、庭の隅の車庫に、スポーツタイプの白い乗用車が駐められていた。  美緒は、明かりの点いた二階の出窓を見上げ、ちょっと緊張した。高岡沙也夏の顔は、ミステリー協会のパーティーで二、三度見かけて知っているし、ここへ来る前、電話で何度か話した。とはいえ、きちんとしたかたちで会うのは初めてだったからだ。  インターホンのボタンを押すと、待っていたようにすぐに「はい」という返事があり、美緒の名乗るのを聞いて、玄関のドアが開いた。     2 「いらっしゃい、遠くからご苦労さま」  言いながら笑みを浮かべて出てきたのは、高岡沙也夏本人だった。  目と鼻と口が大きく、少し頬骨の出た、特徴ある顔をしていた。個性的な美人と言えなくもない。背は、美緒より六、七センチ高い百六十二、三センチ。心持ち怒り肩で、女性としては、がっしりしているほうだろう。  大きなボタンの花柄をあしらった、派手なワンピースを着ていた。 〈髪型を変えたんだわ〉  美緒はひと目見て、そう思った。著書に載っている写真や、パーティーで見た顔は、いずれも髪を肩の下まで垂らしていたのに、目の前の沙也夏は、後ろを刈り上げたボーイッシュなショートヘアにしていたからだ。  美緒は、沙也夏の開けてくれた鉄の門扉を入り、彼女につづいた。  促されるまま玄関に入り、六畳ほどの広さの応接間へ導かれた。  そこで、名刺を出し、あらためて初対面の挨拶をした。 「お顔は、パーティーの席などで何度か拝見したことがありましたが」  美緒が言うと、 「そういえば、私もお会いしたことがあるような気がするわ」  彼女もそんな愛想を返し、「とにかく座っていて」と言いおいて、出て行った。  言われた通り、美緒は腰をおろした。  応接セットの他には、壁に一枚の抽象画がかけられ、出窓に観葉植物の鉢が二つ並べられただけの、あっさりした部屋だった。 「不精者のひとり暮らしで、何もないんだけど」  用意しておいたのだろう、沙也夏がすぐに盆に茶を載せて運んできた。 「ご面倒かけて、すみません」  美緒は、頭を下げた。  沙也夏が思っていたより気さくな感じなので、内心ホッとしていた。 「そのかわり、後で、新鮮で美味《おい》しいお魚を食べさせてくれるお店へご案内するわね。ホテルのほうはいいんでしょう?」 「はい」  今回は仕事だし一人なので、駅前のホテルに宿泊の予約をしてあった。 「あ、そうそう」  沙也夏が美緒の前に茶を置き、時計を見てから、言った。「笹谷さんには悪いんだけど、もう一時間ほどしたら、銀嶺書店の方が見えるの。本当は四時の連絡船で着いて、今頃は帰っているはずだったんだけど……。青森で偶然知った方に会ったとかで、一便遅れ、六時五十分の船になるからって、連絡があったものだから」 「それまでに、私は失礼しますわ」 「あら、そういう意味じゃないのよ。それまで待っていただきたいということなの。来たら、一緒に食事にと思って。見えるのは弘田さんていう方なんだけど」 「弘田さんでしたら、存知上げていますわ。編集者同士の親睦会でお会いしたことがありますから」  美緒は、自分より一つ二つ年上らしい、色白のほっそりした顔の男を思い浮かべながら答えた。 「それなら、よかった」 「でも……」 「一緒では、嫌?」 「いえ、先生と弘田さんにご迷惑ではないかと」 「私はいいわよ。弘田さんだって、笹谷さんみたいに若くて綺麗な方と一緒のほうが、私みたいなオバさんと二人だけより、いいに決まっているわ」 「そんなことありませんけど、それじゃ、ご一緒させていただきます」 「よかった」 「あの、それで、弘田さんも、やはり先生に新しい作品を書いていただくために?」  美緒は気になって、訊いた。  編集長に、「必ず決めて来いよ」と言われていたし、他社に負けたくない。 「まあそうね」 「先生と銀嶺書店さんとの長いお付き合いはよく存知上げています。でも、今度は、ぜひうちのほうの作品を先に書いていただくわけにはいきませんでしょうか」 「そのつもりでいるわ」 「そうですか、ありがとうございます。よろしくお願いします」  美緒は深々と頭を下げた。  高岡沙也夏は、銀嶺書店が育てた作家だと言ってもよかった。ホームズ賞の佳作になったとはいえ、ほとんど注文がなかったとき、銀嶺書店の文芸書籍編集部長・小松崎学が、「売れなくても三作目までは面倒をみよう」と言ったというのは、業界では有名な話である。本当にそう言ったかどうかは定かでないが、とにかく、その後、彼が沙也夏の書き下ろしに付き合い、一作ごとに売り上げを伸ばしていったのは事実であった。  それというのも、小松崎は、沙也夏が学生結婚した夫の親友で、十数年来の付き合いがあったかららしい。それで、今では、この小松崎との個人的な交友関係、無名だった自分を売り出してくれた恩義、という二重の意味で、彼女は銀嶺書店と強くつながっているのだった。  その銀嶺書店より先に書いてくれるというのだから、美緒は、これで大きな顔をして東京へ戻れる、と安堵した。  その後、沙也夏がいま清新社用に構想しているのは札幌と阿寒を舞台にした連続殺人事件で、脱稿は五ヵ月後を予定している、といった話を聞いているうちに、六時五十分になった。 「そろそろ入港する頃ね」  沙也夏が出窓のほうへ顔を向け、連絡船の気配でも確めるような目をして、言った。  そのとき、待っていたように、ボォォー、ボォォーという長い汽笛が二度鳴った。  どことなく哀愁を帯びた、遥か遠くから響いてくるような音だった。 「着いたみたい」  沙也夏が美緒に目を向けた。 「あれが連絡船の汽笛ですか?」 「そう。出港の直前と入港した直後に、だいたい鳴らすみたい。一度のときもあれば、三度ぐらい鳴るときもあるわ。庭の端に立てば船が見えるので、よく分かるんだけど」 「素敵ですね」 「でも、残念ながら、もうじき廃止……」 「ええ。私なんか、前に二度乗っただけですけど、廃止になるのは寂しいですわ。飛行機では味わえない哀愁とロマンがありましたから。それで、実は、私も明日は青函連絡船で帰るつもりなんです。たぶん最後の機会ですから」  美緒は言った。青函連絡船で帰るのには、青森である人間に会うため、というもう一つの理由があったのだが、関係がないので、触れなかった。 「弘田さんも、同じ理由で船で来るんだと言ってたわ。笹谷さんとは反対に、帰りは飛行機らしいけど。……あ、駅からタクシーを飛ばしたら、もうじき見えるわね。じゃ、私はちょっと失礼して、出かける準備をさせていただくわ」  沙也夏が話の途中で時計を見、立ち上がった。  時計の針は、六時五十分を四、五分回ったところだった。 「それじゃ、弘田さんの見える前に、私は電話をお借りしてもいいでしょうか。先生にお受けしていただいたことを、少しでも早く編集長に知らせたいものですから」 「どうぞ。ドアを出て右側だから」  言いおいて、沙也夏が出て行った。  そこで、美緒もつづき、電話台の前に立った。  ふと、壮のアパートの番号をプッシュしたい誘惑にかられたが、 〈どうせ、あの宇宙人、まだ帰っていないに決まっているわ〉  胸の中でつぶやいて、03につづく会社の番号の上に指をすべらせた。     3  美緒が電話を終えるのとあまり違わずに、沙也夏も戻ってきた。  黒い格子柄ブラウスを、モノトーンのストレートパンツの上に出して着、太いベルトでそれを引き絞っていた。胸には白い大きなリボンを付け、指にはルビーの指輪が光っている。  写真のなかでいつもかけている、ピンクの縁をした大きなサングラスをつけていた。  弘田が来たら、すぐタクシーを呼んで出かけよう、という。場所は、美緒がさっきバスで通ってきた駅前の大通りから少し入ったところらしい。新鮮な魚を大衆料金で食べさせる店だという話で、美緒の泊まるホテルに近いのも、好都合だった。 「遅いわね」  七時を十二、三分過ぎたとき、沙也夏が眉をひそめ、とがめる口調で言った。 「タクシーが混んでいるんでしょうか」  美緒は、他の言い方が見つからずに、応じた。 「そんなことないと思うけど……のんびり、バスか電車でも待っているのかしら。一緒に、なんて誘って、笹谷さんには本当にご迷惑だったわね」 「私はかまいません」 「そうだわ、もしかしたら、さっきの汽笛は別の船だったのかもしれないわ。時刻表に載っていない、貨物だけを乗せる連絡船もあるから」 「そうなんですか」  美緒は初耳だった。 「とにかく、駅に電話して訊いてみるわ。弘田さんの乗った船が着いたのかどうか」 「すみません」 「謝るのは弘田さんよ。見えたら、二人でとっちめてやりましょう」  沙也夏は、笑みを浮かべた顔を美緒のほうへ向けて出て行ったが、すぐに、 「やっぱり、青森を三時に出た五便は、時刻表通り六時五十分に入港したそうよ」  と、帰ってきた。  時刻は七時二十分になろうとしていた。 「もう、歩いたって着くというのに」  さらに十分、十五分と過ぎた。  だが、弘田は現われなかった。  沙也夏が東京の銀嶺書店に電話し、編集部長の小松崎と話した。  彼女は午後買物に行って留守にしていたため、弘田が一便遅れるという連絡は、小松崎から受けたのだという。 「その後、会社にも電話はかかっていないみたい」  沙也夏が報告した。 「道に迷ったんでしょうか」  美緒は首をかしげた。 「そんなことないわ。弘田さんはここへ二、三度、見えているんだし」 「でしたら、三時の青函連絡船にも乗り遅れたのかしら? ……あ、でも、それも変ですわね。それなら、先生のところへ連絡しているでしょうから」 「いえ、笹谷さんの言う通りかもしれないわね。……ええ、そうだわ、もうそれしか考えられないわ。函館に着いていて遅れているんなら、それこそ電話があるはずだし。青森で偶然会ったという人と話がはずんで忘れているか、お酒でも飲んで寝ちゃったのよ、きっと」  それもなんだかおかしい、と美緒は思ったが、他に考えられないので、黙った。いや、もう一つの可能性が頭に浮かんだのだが、口にするのをはばかったのだ。  もう一つの可能性——。それは、弘田が何らかの事故あるいは事件に巻き込まれ、連絡不可能な状態に置かれているのではないか、という想像だった。 「とにかく、これ以上待つのはやめて、二人だけで出かけましょう。留守番電話に行き先を吹き込んでおくから、もし函館に来ているんなら、追いかけてくるでしょうし、どこかから連絡が入れば、後でテープを聞けば、分かるわ」  美緒が黙っていると、沙也夏が言って廊下へ出て行き、タクシーを呼んでから、留守番電話をセットした。     4  翌朝、美緒は八時に、ホテルのベッドで目を覚ました。  最初に頭に浮かんできたのは、弘田のことである。  二、三度顔を合わせただけの他社の人間など、関係がないはずなのに、気になった。  昨夜、美緒は、沙也夏とともに九時半過ぎまで、大門の「江差」という小料理屋で弘田を待っていた。だが、彼は現われなかったし、電話もかからなかった。  沙也夏と別れてホテルの部屋に落ちつくとすぐ、帰宅した沙也夏から電話があった。しかし、留守番電話にも弘田の伝言は入っていなかった、という。  その後、弘田からは何か連絡があっただろうか、と美緒は思った。沙也夏に訊《き》いてみたかった。  といって、明け方三時頃まで仕事をして十時近くまで寝ている、という彼女に、今の時間、電話するわけにはいかない。 「あと二時間か」  美緒はベッドの上で伸びをしながら、つぶやいた。  それは、彼女が青函連絡船に乗るまでの時間でもあった。  朝七時二十分に出港する便もあるのだが、青森で土橋滋という小説家志望の男に会い、夕方七時十七分に出る寝台特急「ゆうづる4号」に乗ればいいので、次の十時十分発の六便にしたのである。  土橋滋というのは、青森市に住む定時制高校の教師だった。年齢は二十九歳。美緒はまだ会ったことはない。が、十日ほど前、電話で話したところによると、プロのミステリー作家を目差し、ひとりでコツコツと小説を書いているらしい。  こうした男を美緒がなぜ訪ねるのか、というと、彼の投稿してきた原稿を読み、トリックが非常にユニークで、物語の構成を変えて書きなおせば出版できるのではないか、と思ったからだ。これは編集長の西村の見方でもあり、函館まで行くんならついでに一度会ってみるか、という話になったのである。  ベッドでぐずぐずしていても仕方がないので、美緒は起き上がった。  軽く朝食をとって美味しいコーヒーでも飲み、港のあたりをぶらぶらしてみよう、と思った。そうすれば、乗船が始まる頃になるだろう。  美緒が、沙也夏の家の下あたりにあたる、末広町の旧函館港桟橋まで行き、港と連絡船を眺め、赤煉瓦の金森倉庫群、高田屋嘉兵衛資料館などを見ながら駅の近くまで戻ったのは、九時二十分だった。  沙也夏に電話をかけて、出港の十五分くらい前に乗り込めばいいので、まだ三十分ほど余裕がある。そこで、美緒は駅の西側に並ぶ朝市をひやかし、両親と壮にイカの加工品と毛ガニの土産を買った。いや、買ったというより、東京のスーパーなどのパック商品と比べると、まさに二分の一、三分の一程度の値段なので、ついギラギラした目で見ていて(自分の目は自分で見えないが、たぶん……)買わされてしまったのである。  それでも、なんだかとても得をしたような気分になり、いっとき弘田のことも忘れていた。五、六千円の買い物なのに、すごい充実感があるのだ。嫌なことがあると、男のやけ酒のかわりにやけ買いをして気分をまぎらす女性もいると聞くが、自分にも案外そうした�素質�がそなわっているらしい、と美緒は内心ニヤニヤした。  だが、そんな気分も、時計を見て、市場の奥にある連絡船桟橋乗降口のほうへ足を向けるまでだった。一軒の食堂の前に赤電話が目についたときには、つと緊張した。  弘田から、もしまだ沙也夏に連絡がなかったとしたら……という想像が脳裏をかすめたのだ。  手帳を出して沙也夏の番号をダイヤルすると、三度目のベルが鳴り終わる前に相手が出た。  起きていたらしい。  美緒はまず昨夜ご馳走になった礼を述べ、 「それで、弘田さんからは?」  と、訊いた。 「連絡がないの」  沙也夏の声も、さすがに心配そうだった。 「その後、会社にも、電話はなかったんでしょうか?」 「私はいま起きたばかりなので、これから、小松崎さんに電話してみようと思っていたところだったの。まだ出社していないでしょうから、自宅に」 「そうですか」 「昨日も言ったように、青森で会ったという人とお酒でも飲み、寝ちゃったのよ、きっと。それで、まだ寝ているか……起きて気がついたものの、恥ずかしくて、連絡できないでいるんじゃないかしら。私は、今日のお昼過ぎにでも、頭をかきながら、ひょっこりここへ現われるような気がするわ」  沙也夏が明るい声を作って言った。  そう思っているというよりは、思いたい、といった感じであった。 「でしたら、いいんですけど」 「本当に迷惑ね、弘田さんは。関係のない笹谷さんにまで心配をかけて」 「いえ」 「もう弘田さんのことは、気にかけないほうがいいわ。一人前のおとななんだし。それより、笹谷さんは、もうじき連絡船に乗るんでしょう?」 「はい」 「だったら、いい旅をね。わざわざ遠いところまで来てくださって、ありがとう。西村編集長によろしく」 「はい。それじゃ、昨夜の作品の件、よろしくお願いいたします」 「分かったわ。ボン・ボヤージ」  沙也夏が言って、電話を切った。  美緒は受話器を戻しながら、いったい弘田はどうしてしまったのだろう、と思った。  だが、すぐに、自分が気にかける必要のない件なのだ、と思い返した。別に、自分と会う約束をした相手ではないのだから。それに、沙也夏も言ったように、彼は一人前の男なのである。 「ばかばかしいから、もう考えるのは、やめよう」  美緒はつぶやいて、下に置いてあった土産の紙袋を取った。     5  青函連絡船の就航は、一九○八年(明治四十一年)三月だという。だから、来年、一九八八年三月で、ちょうど満八十年になる。現在、日本人の女性の平均寿命が約八十歳なので、一人の女性の一生とほぼ同じ年月、連絡船は青森と函館の間を往復しつづけたことになる。  この間に運んだ人間は、延べ約一億六千万人。まさに、本州と北海道を結ぶ大動脈としての役割を担ってきたのだった。  それが、来年の三月十三日、青函トンネルの開通にともなって全廃される予定になっていた。  対岸の見える津軽海峡を渡るのに、三時間五十分、約四時間。東京・大阪間が新幹線で三時間の時代、現代人のせっかちな性質に……というより、今の効率第一主義の社会そのものに、合わなくなっていた、とも言える。多くの人は、東京から札幌や函館に飛行機で飛び、飛行機で帰ってしまうからだ。  しかし、能率だけが、物事の尺度ではないはずである。能率、効率だけを極限まで追い求めている現代のような味気ない社会だからこそ、逆に味わいのあるものも必要なはずであろう。  いや、青函連絡船は、たまに乗るそうした旅行者のためにだけあるわけではない。函館や青森に住む多くの人々にとっては、現在だって最も便利な交通手段だと聞く。トンネル回りになれば、かかる時間は二時間と半分になるが、運賃が高くなるうえに、指定券を買わなければ座席の確保が難しくなるだろう。年寄りや体の弱い者が、横になって海峡を渡ることもできなくなる。  そこで、便数を減らしてもいいから何とか残してほしい——という声が起こり、地元、青森・函館の市民団体を中心に存続運動が進められていた。  現在、青函連絡船は、「七隻十五便体制」になっている。つまり、季節便を除くと、八甲田丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸、石狩丸、檜山丸、という七隻の船が、下り八便、上り七便、運行している(他に空知丸という貨物専用の船があり、季節便、貨物だけの便を含めると、上り十三便、下り十四便の計二十七便になる)。それを、「二隻四往復」程度にして存続できないか、というのだった。  が、そうした声に対しても、これまでのところ、JR北海道は色よい返事をしていないらしい。  美緒は、そうした事情を新聞や雑誌で読み、また、空知丸の話などは昨夜沙也夏から聞き、長い歴史のあるものを�現代�という、ほんの短い時代の要求だけで壊していいものだろうか、と疑問に感じた。美緒の勤めている神田周辺の街並なども、同様だった。古本屋街は何とか残っているものの、古い家が次々に壊され、ただ能率一辺倒のビルに変わっていってしまっているのである。  その反面でのレトロ・ブーム。美緒は何だか、胡散臭いものを感じた。多くの人が微温湯《ぬるまゆ》につかって、�行動�というものを忘れてしまっている時代の、危険な兆候のような気さえした。  もっとも、美緒だって何も行動しているわけではなく、記念に青函連絡船に乗ろうとしているのだから、他人のことをとやかく言えた筋合ではなかったが。  桟橋乗降口は国鉄がJRに改組される前に早々と閉鎖されたらしく、その旨の張り紙がしてあった。そのため、美緒は長いアーケード通路を駅舎まで歩き、改札口を入ってからその通路と並行した構内乗船通路を、連絡船待合室まで戻らなければならなかった。  待合室の外には、テーブルの上に乗船名簿の用紙が箱に入れて置かれていた。正確には「青函連絡船旅客名簿」という、葉書よりひとまわり小さな紙で、普通船室の客は白い紙、グリーン船室の客は薄緑色の紙、と分かれている。連絡船に乗る者はすべて、そこに住所、氏名、年齢、性別を書き、乗船の際、駅員に渡すのである。  乗船口は第一と第二とあった。待合室より手前の右に開いたのが第一乗船口で、待合室の前を通って突き当たったところが第二乗船口。青森も函館も、岸壁が二ヵ所ずつあり、便によって、船はそのどちらかに着くのである。  美緒の乗る十時十分の六便は、第一乗船口だった。そこで、美緒が乗船名簿の記入を済ませて、元きたほうへ戻って来ると、高校生らしい修学旅行の一団が、声高に喋りながら通路の途中に設けられた「乗船改札口」を入って行くところだった。男子校らしく、全員黒い学生ズボンに白いホンコンシャツを着ていたが、ズボンの太さ、髪型は様々である。言葉は関東弁でも関西弁でもなく、東北弁に近いかもしれない。みな、バッグの他に土産品らしい大きな紙袋を提げているので、帰るところらしい。下の列車のホームから上ってきたから、団体専用の口から入ったか、列車で着いたのだろう。  美緒は、彼らが教師に注意されながら全員入ってしまうのを待ち、乗船名簿を出して乗船改札口を抜けた。  乗船改札口といっても、旅客名簿を入れる箱が二つ置いてあるだけで、駅員はいたりいなかったり。前に壮と来たときは、駅員が常時二人立ち、乗船客一人一人から名簿を受け取っていたような気がするが、記憶違いだろうか。とにかく、今は、誰でも自由に通過できた。  そこを入り、三、四十メートル進んだところが乗船口である。船との間に乗船ゲートが架かっている。ゲートは一階と二階の両方にあり、二階はグリーン船室の乗客用だ。  船は、下と上で赤とベージュに塗り分けられた羊蹄丸、五三七六トン。さっき駅員に訊いたところ、同じ便でも、日によって船は変わるらしい。美緒は一度、二階の送迎桟橋へ上がってみてから、下へ降り、乗った。  ゲートには、「入場券で船内に入ることはできません」と書かれていたが、ここでも切符を一々見るわけではなく、乗務員が手にしたカウンターでカチカチと乗船人数を数えているだけだった。  客室は、椅子席とジュウタン席に分かれていた。乗客は、そのどちらの席を選んでもよかったし、途中で移動するのも自由である。だが、乗り慣れた人はたいていジュウタンの席を選び、用意されている枕をつかって横になってゆく。そのほうが椅子よりはるかに楽だし、船酔いもしないからだ。  美緒も、ジュウタンの席を確保するために船室へ入って行くと、気の早いグループは車座に座り、缶ビールを開けていた。カーテンの付いた女性席というのもあるのだが、美緒は何かの行商をしているらしい六十年配のおばさんと、五十代の夫婦、三人連れの若い女性グループのいる席に入れてもらい、荷物を行商のおばさんに頼み、写真を撮るためにデッキへ出た。  さっきの男子高校生たちが大勢、手摺から身を乗り出し、送迎桟橋にいる二人の若い女性に口々に何か言っていた。  女性は、どうやら高校生たちの北海道旅行に付き合ったバスガイド嬢らしい。二人とも私服なので、休みを利用して自主的に見送りにきたか、会社の営業政策上、見送りに派遣されたのであろう。  高校生たちが勝手なことを言ってからかうと、二人のガイド嬢は、恥ずかしそうに顔を手で覆ったり、下を向いたりしている。  やがて、出港の時刻が近づき、ドラが鳴った。四回、五回、六回。乗船ゲートが上げられ、ピィーッという汽笛の音。蛍の光のメロディが流れ出し、ボォォォーという長い一声が響く。  船はゆっくりと岸壁を離れ出した。  高校生たちは、「また来るからな」とか「俺の嫁さんになって」とか叫ぶ。すると、二人のガイド嬢が、ハンカチで目頭をおさえて泣き出した。  一瞬、少年たちの声が途絶え、彼らはかわりにそれまで以上に上体を乗り出して手を振った。  もちろん、いっときの感傷にはちがいない。が、そこには、やはり船ならではの別れの哀愁があった。  船がゆっくりと右に首を回した。  美緒はデッキの上を歩き出した。  昨日行った沙也夏の家のある坂の街から、函館山にかけてが、きれいに見えた。  昨夜きて泊まっただけの函館の街が、なぜか、とても懐かしいものに感じられた。これも、海を渡って帰る、という無意識の思いがあるからかもしれない。それが、何も見えないトンネルを通っての「陸つづき」になってしまったら、なんて味気ないだろう、と美緒は思った。     6  連絡船は、しばらく進むと左手に下北半島を、さらに行くと右手に津軽半島を見ながら航行する。そして、二つの半島が接近した平舘《たいらだて》海峡を抜け、左に陸奥湾をわけて、夏泊《なつどまり》半島を見ながら青森湾へ入って行く。  天気は上々で、暑くも寒くもなく、美緒は時々甲板へ出てそれらの景色を眺めながら、四時間のゆったりとした船旅を楽しんだ。  船が青森港の第二岸壁に着いたのは、定刻の午後二時五分。  青森駅は変わった造りで、元々、連絡船乗り場から直接外へ出る口はない。しかも、連絡船乗り場に通じる跨線橋と、改札口へ通じている跨線橋とは、離れて平行している。だから、改札口から連絡船乗り場へ、あるいは逆へ行くには、一旦階段を降り、一番線から六番線まである列車のホームのいずれかを通らなければならない。つまり、この駅は、東北本線の終着駅でありながら、本州から北海道へ渡る中継駅としての性格が強いらしく、列車と船の乗り換えに最も便利にできているのだった。  しかし、それも来年の三月までで、連絡船が廃止されれば、その乗り場に通じている跨線橋の端は封じられるか、取り壊されることになるのだろう。  美緒はそう思い、何となく複雑な気持ちで操車場の奥に覗《のぞ》いている連絡船を見やりながら、長いプラットホームを歩いて行った。  あまり広くない駅の構内から広場へ出たのは、二時十二、三分である。新町通りという、市のメインストリートが、広場から真っ直ぐ東へ向かって伸びていた。以前、壮と来たとき覗いたが、広場の右手にリンゴ市場が並び、右対角に魚市場へ入る路地が小さな口を開けている。  土橋滋に電話すると、アパートの近くの棟方志功記念館前まで迎えに出ている、という。駅からそこまでは、バスでもタクシーでも十分ぐらいだという話だった。  美緒は電話ボックスを出、函館で買った土産をコインロッカーに入れてから、タクシーに乗った。  メインストリートといっても、新町通りにはそれほど高いビルがあるわけではない。函館の駅前通りに比べると、ずっと田舎という感じだった。タクシーはその通りをあっという間に抜けて右に折れ、四車線の広い道路へ出た。東北本線にほぼ並行して走っている国道四号線だという。夏泊半島の付け根にある浅虫温泉を通り、野辺地で海岸線から離れて十和田市のほうへ向かっているのだ、と運転手が説明した。  その国道も三、四分走って右に逸《そ》れ、何度か曲がって、NHKの前を過ぎて停まった。 「志功館はそっつ側……図書館の横です」  運転手が、道の反対側に顔を向けて、言った。  少し先に、会館風の大きな建物とNTTのビルが見えるが、街中《まちなか》という感じはない。住宅街なのだろう。  美緒は料金を払って降り、土橋滋の姿を目で探した。それらしい姿はなく、子供の手を引いた老婆が歩いているだけである。  美緒は狭い道路を渡った。  青森市立図書館と書かれた門の奥に、新しい白い建物が建っていた。その庭つづきの右手に、床を高くした校倉造《あぜくらづく》り風の茶色いこぢんまりした建物が覗いている。それが、ここ津軽出身の志功の作品を展示した記念館らしい。  ほとんど視力を失ってからも制作をつづけたという執念の版画家、棟方志功。美緒もその名前と、「釈迦十大弟子」など、いくつかの作品は知っている。  帰りに時間があったら覗いてみよう。美緒がそう思い、 〈それにしても、先に来て待っていないなんて失礼ね〉  口の中でつぶやきながら、道の左右に目をうつしたとき、 「あの、清新社の笹谷さんでしょうか?」  石積みの門の陰から、一人の男がのっそりと姿を現わした。     7  男は、グレイのズボンに薄いピンクのTシャツを着ていた。身長百六十五、六センチで多少痩せ形。長髪にした頭は、体に比べて大きい。陽のあたる外へ出ないのだろうか、青白い、あまり健康そうとはいえない顔色をしていた。細い一重瞼の目は、美緒を直視しない。どこかおどおどしたように揺れ、それでいて、時々ちらっちらっと鋭い探るような視線を上目づかいに向けてきた。  美緒は嫌な感じがした。何となく陰気な印象であった。それに、門の陰から自分を観察していたのではないか、という疑いもぬぐいきれない。 「すみません。早かったようなので、ちょっと図書館を覗いていたものですから」  男——土橋滋は言ったが、彼が出てきたのは図書館の玄関の方角ではなかったのだ。  近くに適当な喫茶店もないので、アパートへ……と言われ、美緒は彼につづいた。  道々話したところによると、土橋の郷里は青森ではなく、岩手県だという。石川啄木の出身地である旧渋民村。そのせいだろう、啄木を敬愛しているらしい。盛岡の大学の入学試験に落ちて弘前の大学に入学したため、そこを卒業して青森県の県立高校・国語科教師になった。現在は、ここから自転車で十分ほどのところにあるR高校の定時制に勤め、昼はだいたいアパートの部屋で、小説を読んだり書いたりしている——。  はっきりと口にしたわけではないが、できれば教師を辞め、東京へ出てプロの推理作家としてやっていきたい、という意向のようであった。  部屋は、歩いて五分ほどのところだった。モルタルアパートの一階である。二DKといった造りらしい。美緒が来るので掃除したのか、いつもそうなのか、綺麗に片づけられ、食卓を兼ねているらしい小さな応接セットに、橙色の花を付けたサボテンのミニ鉢が置かれていた。  豆を挽《ひ》き、ドリップでいれてくれたコーヒーは美味《おい》しかった。  どうやら、言葉以上に美緒を歓迎し、美緒の持ってきた話に期待を寄せているらしい様子が察しられた。もしかしたら、彼の望むプロの作家への道がひらけるかもしれないのだから、当然といえばいえる。そして、探るような目付きも、待ち合わせ場所で美緒を観察していたらしい行為も、そのためだと解釈すれば、納得できないことはない。だが、そう思っても、美緒は、目の前の男にいま一つ心を許せないものを感じた。  それは、やはり彼女を見る目つきのせいかもしれない。腹の底にいつも何かを秘めている、執念深い、粘着質な性格を想像させ、感覚的に合わないのである。  しかし、この際、個人的な好みは関係ないので、美緒はコーヒーの香りをほめると、バッグから原稿を取り出した。  ふっと、土橋が緊張するのが分かった。これは、編集者を前にして、新人作家や投稿者が、共通して見せる顔である。学生時代、試験の答案を返されるとき自分もこんな顔をしたのではないか、と美緒は思う。 「だいたいのことはお電話でお話ししましたが、トリックはとてもユニークで面白く、良かった、と思います。編集長も、そう申しておりました。ただ、単刀直入に言わせていただきますと、トリックに比べ、あまりにも物語がありきたり過ぎ、新鮮さや衝撃力がありません」  美緒がそこまで言ったとき、土橋の白い顔がいっそう白くなって歪んだ。  もう目を逸らさなかった。下から睨《ね》めつけるように、美緒をじっと見つめていた。  が、美緒はかまわずにつづけた。 「それで、もし土橋さんが、このトリックをつかって、まったく別の作品をお書きになるお気持ちがあるようでしたら、それをぜひ見せていただきたいと思い、伺ったわけなんです」  美緒は言葉を切り、反応を待った。  土橋は、すぐには、口を開こうとしなかった。  まったく新しい作品を書け、と言われ、ショックだったのかもしれない。電話では、美緒は、「改稿できたら……」といった表現で話しておいたからだ。それで、多少手直しすれば出版されるかもしれない、といった期待を彼に抱かせたとすれば、悪いことをした、と思った。 「もちろん、トリックも構成と一体のものですから、別の物語を作るといっても、難しいだろうとは思いますが」 「ええ」  土橋が重い調子でうなずいた。 「いかがでしょうか」 「もちろん書いてみますが、ここでつかっているトリックは、この作品だからこそ成り立つものなんです。それなのに、ここからトリックだけを取り出し、どういう物語にしたらいいのか、今のところまるで思い浮かびませんので」  言い方はおだやかだったが、その言葉には抗議の意が感じられた。〈おまえには、小説というものが分かっているのか〉という抗議である。〈トリックだけ取り出して、別の作品に簡単に当てはめられるなら、貴様たちがやってみろ!〉  それは、怒りといったほうが適切かもしれない。その怒りを口に出して相手に叩きつけられない屈辱感で、今、彼の心は震えているのかもしれない。  美緒には、そう想像がついたが、黙っていた。これは仕方がないことなのである。こちらは編集者であり、そちらは作家を目差しているのだから。もし、どうしてもプロになりたかったら、その屈辱感をエネルギーに変える以外に道はない。  土橋の作品がありきたりの物語だからといって、その程度、いやそれ以下のレベルで本になっている作品は、ごまんとある。書きとばしている作家の作品と比べれば、彼の作品のほうがはるかにましである。しかし、ある著名な作家が言ったように、プロの作家になるには、一度は必ずある高度以上の山に登らなければならないのだ。そして、実際、現在活躍している作家は、少なくとも一度は山に登っているのである。  一度登ってしまえば、あとは尾根道を歩いていれば済む。いや、とても尾根とは言えない谷に転落したような作品を、平気の態《てい》で衆人の目に触れさせている厚顔な作家もいないわけではない。が、新人は、そうした作品と比べて自分の作品のほうがずっと良質ではないか、と叫んでも駄目なのだ。  それじゃ、ゆっくり考えてみてください、と言って、美緒は腰を上げようとした。  そのとき、土橋の椅子の後ろの台に置かれた電話が鳴った。 「失礼」  土橋が腰を浮かせて体を回し、受話器を取った。 「ええ、はい、土橋ですが……」  怪訝《けげん》そうな様子だ。 「あ、ああ、弘田さん……分かります、知っています。……でも、僕は会っていませんが……」  思わぬところで飛び出した�弘田�という名に、美緒はバッグに伸ばしかけた手を途中で止めた。 「もちろん、電話もいただいていません。……いえ、どういたしまして」  土橋が受話器を置き、美緒のほうに顔を向けた。  が、美緒の視線に出会うと、何となくどぎまぎした感じで目を逸らした。 「失礼ですけど、いま電話で言われた弘田さんて、銀嶺書店の弘田さんでしょうか?」  美緒は訊いた。 「え、ええ……」  土橋がちらっと美緒を見て答え、腰を椅子に戻した。  最初に会ったときのように、美緒の心の内を探るような目になっていた。  自分が清新社以外の出版社にも投稿していたのを、図《はか》らずも知られ、気まずいのかもしれない。  だが、美緒はそんなことより弘田の身が気になった。 「実は、私、昨夜、函館の高岡沙也夏先生のお宅で弘田さんとお会いするはずだったのに、弘田さんは見えなかったんです。それで、高岡先生と心配していたんですが、お電話はどなたから……?」 「銀嶺書店の小松崎さんです。昨日、弘田さんに会っていないかと……。もちろん、僕は会っていませんが。青森まで来たのは確実らしく、この近辺で弘田さんにちょっとでも関係のありそうなところに片端から問い合わせているようです」  ということは、弘田の所在はまだ分からないらしい、と美緒は想像した。  そうなると、友人の家に酔って寝ているなどという可能性はもうほとんどない、といってよかった。何らかの事件あるいは事故に巻き込まれ、連絡が不可能な状態になっている——これまでも何度か考えたこの可能性が最も高いように思えた。 「車で駅までお送りします」  美緒が黙っていると、土橋が言った。  この男が車に乗る——。美緒は何となく違和感を覚えたが、部屋を出てアパート裏の駐車場から出してきた車を見て、さらにびっくりした。  外車のアウディだったからだ。  この男は、見かけによらず派手好きで目立ちたがりやなのかもしれない。  第二章 夏泊《なつどまり》半島の死者     1  夏泊半島は青森市の北東に位置している。青森市の中心から半島の西の付け根にあたる浅虫温泉まで十二、三キロ、東の付け根の浅所海岸まで約二十キロ、といった距離だ。下北、津軽という二つの大きな半島に囲まれた陸奥湾に、北向きに突き出した小さなでっぱりである。  小さな……といっても、二つの半島に比べてのことで、東北の熱海と呼ばれている浅虫温泉や、オオハクチョウの飛来地として有名な浅所海岸から先端の夏泊崎や大島まで行くには、車で二十五分から三十分ぐらい、かかる。  半島全体が東津軽郡|平内《ひらない》町に属し、青森市に属する浅虫温泉とともに、「浅虫夏泊半島県立自然公園」となっている。  西の海岸線はいりくんだ岩場が多く、岬や入江をいくつもつくっている。一方、東の海岸線にはきれいな松林がつづき、半島の先端に近い所には、二十ヘクタールを越す丘陵に一万数千本のツバキが群生している自生ツバキの北限地、椿山がある。  九月十八日(金曜日)の午後、弘前にあるT学院大の学生、唐木卓次は、クラスメートの本間ユリにせがまれて、夏泊半島までドライブに来た。  午後の講義が終わってから大学を出たので青森市を抜けて浅虫温泉を過ぎ、国道四号線(陸羽街道)から北へ逸れ、半島内に入ったのは四時近くである。  二人は恋人同士というわけではない。が、同じ青森市に住んでいる仏文科の三年生として、気心が通じ合っている。ともに、�よく遊ぶかわり講義だけは真面目に出る�といったタイプだ。  車は雑木林の間を走っていた。しばらくは山の中の道なのである。  五、六分走り、アネコ坂というゆるやかな坂を下って行くと前方に海が見え始め、茂浦《もうら》という集落に出た。  しかし、車は集落の端をかすめただけでまたすぐ山道に入り、左手下に時々入江を見ながら、峠のようになった陸奥湾展望所まで一気に登った。  唐木はそこで車を停め、ユリと一緒に降りた。  誰もいなかった。展望所といっても、道の左側に空地があるだけで、ベンチ一つ置かれているわけではない。 「わあ、綺麗」  ユリが髪の毛を手でおさえて、歓声を上げた。  下の入江を囲み、家々の屋根が、西陽を反射して光っている。帆立貝の養殖の発祥地だという浦田の集落だ。その先に青く澄んだ海が広がり、右手はるかかなたに下北半島が、左手に津軽半島が白くかすんでいた。  唐木は青森市の生まれなので、夏泊半島へは何度も来ている。が、ユリは青森市内の親類の家に寄宿しているものの、秋田市出身のため、まだ二度目。それも、こんな山の中は素通りして、椿山の海水浴場へ行っただけだという。 「もう二年半も青森に住んでいるけど、意外にこないのよね。車なら、一時間で来れるというのに」  風で髪の乱れるのをしきりに気にしながら、ユリが言った。 「大学が反対の方角だから」  唐木は答える。  彼も、月のうち二、三回を除くと、列車で通学しているのだった。 「青森に大学があればよかったのよね」 「だいたい、県庁所在地なのに、大学が一つきりなんてところ、他にあるかね」  青森市には国公立大学はなく、市街から外れたところに私立大学が一校あるだけなのである。 「ほんと。珍しいわ、きっと」 「弘前は津軽十万石の城下町だったのに、青森は江戸時代の中頃まで、小さな漁村にすぎなかったそうだから、仕方ないかもしれないけど」  二人がそんな話をしていると、道路脇に車が停まり、四十前後の男女が降りてきた。  そこで、彼らはなんとなく、空地の真ん中に駐めてあった車に戻った。  道は浦田まで下ると、あとは半島の先端から東側を回って浅所海岸に至るまで、ほとんど海に沿って走るのだった。 「俺、ちょっと用をたしてくる」  ドアに手をかける前に、唐木は言って、立入禁止の鉄柵がある空地の奥へ向かって駈け出した。  ユリのためには青森駅前で車を停めて待っていてやったのだが、自分は車から離れるのが面倒だったので、そのまま来てしまったのだ。  鉄柵といっても、閂《かんぬき》のかかった車止めの扉で、人間は腰を屈《かが》めれば、楽にくぐり抜けられた。中は草藪の間に、道らしいものが山の中へ通じている。  唐木が振り返ると、中年の男女はもう車に戻り始め、ユリも見ないように反対を向いていた。  それでも、全身を晒《さら》してやるのは気がひけるので、彼は二、三メートル、ススキの茂みの中へ足を踏み入れた。 「——?」  彼が息を呑んだのと足を止めたのは、同時だった。  鉄柵の外からも、草の中に白い布のようなものの落ちているのが認められた。だから、誰かが捨てたボロかタオルだろう、と漠然と思っていた。  ところが、それは人間の着ているシャツだということが分かったのだ。  つまり、シャツから出ている腕も、頭も、ズボンをはいた脚も見えたのである。  男のようだった。  まさか、マネキンがズボンやシャツをつけて捨てられているはずはないだろうし、こんな草藪の中でいまごろ寝ている物好きもいないだろう。  とすれば、答えは一つだった。  しかし、人間、認めたくないことには拒絶反応が働くものらしい。  唐木は、無意識のうちに頭の中で別の可能性を探っていた。  といっても、ここまでの彼の心の動きは、時間にすればほんの数秒経ったか経たなかったかにすぎない。  彼は、自分が何をしに草藪の中へ足を踏み入れたのかも忘れ、後ずさり始めたかと思うと、突然身をひるがえした。そして、鉄柵をくぐり、声もあげずに車のほうへ向かって走り出した。     2  浅虫にある青森東警察署へ、県警本部の通信指令室から、茂浦のバス停「陸奥湾展望所」近くの草藪で変死体らしいものが見つかった、という連絡が入ったのは四時二十六分だった。  刑事課捜査係の寺本が、窃盗事件の聞き込みから帰り、腰をおろして煙草の火を点けたときである。  捜査係長の山田が、そのことを部屋にいた係員に伝えると、 「らすい、というのはどういうごどだべが」  寺本と一緒に帰ってきたばかりだった五十嵐部長刑事が訊いた。 「通報者はドライブに来ていたT学院大の学生で、茂浦の民家で電話を借りてかけてきたらしいんだが、間近に寄って確認したわけではないんだそうだ」  五十嵐より十歳若い、三十八歳の係長が答えた。 「そうせば、マネキンだったなんてごどもあるんでねえべが」 「あるかもしれないが、シャツを着てズボンをはいていたというから」 「ふーん、じゃ、寺本《テラ》さん、とにがく行《え》ってんべ」  五十嵐が寺本に顔を向けた。  五十嵐は話しながら腰を浮かしていたし、寺本も点けたばかりの煙草の火を消し、立ち上がっていた。  寺本は、二十六歳。半年前、市内の交番勤務から刑事課捜査係に配属されたばかりの駈け出し刑事だった。 「署長と課長ももう戻られると思うが、次長に報告したら、私も行くから」  係長の声を半分は背中に聞き、寺本たちは部屋を出、前庭に降りてパトカーに乗り込んだ。  彼らにつづいて階段を駈け降りてきた鑑識係員たちも、別の車に乗る。  死体と確認されたわけではなかったが、念のためである。  浅虫温泉は、青森湾に面した街だ。警察署の前も、道路を一本越せばすぐ海だった。二台のパトカーはサイレンを鳴らして国道へ出ると、十分ほどで茂浦と浦田の中間にある峠に着いた。  十四、五人の野次馬が集まり、平内町の中心、小湊にある派出所から二人の警官が駈けつけてきていた。  平内町には警察署がなく、夏泊半島は青森東署の管轄になっているのである。 「男の死体であることは間違いありません」  寺本も顔見知りの中年の警官が近づいてきて、緊張した顔で五十嵐に報告した。  浅虫より遠い小湊からずいぶん早いと思っていたら、別の用事で浦田へ来ているとき、連絡を受けたのだという。 「本署のほうには連絡を入れておきました」 「ご苦労《ぐろう》さん」  五十嵐が答え、もう一人の警官が野次馬たちを制止している鉄柵のほうへ、歩いて行った。  寺本たちもつづく。  寺本は緊張していた。  死体といっても、まだ自他殺の判断はつかなかったが、もし他殺なら、彼にとって初めての殺人事件になるからだ。  彼らは、鉄の扉をくぐり、空地の奥へ入った。そして、左から大きく回るようにして、右手の草藪に入り、ススキに埋もれた死体の傍らに立った。地面が柔らかいので、足跡が採取できるかもしれない、と五十嵐が判断したのである。  死者は二、三十代ぐらいの若い男だった。白いワイシャツの袖を二回折り返して着、グレイのズボンに黒い革靴をはいていた。体は斜めうつぶせといった状態で、顔は横向けている。ネクタイを締めたきちんとした身なりなので、サラリーマンかセールスマンといったところか。五十嵐が簡単に検《しら》べたところでは、怪我をしている様子も、首を絞められた跡もない、という。  体のすぐ横に、大型のブリーフケースがあった。 「どうやら強盗殺人といった感じではありませんが、自殺でしょうか」  鑑識係員の一人が言った。 「まだ分がんねな」  五十嵐が答えた。 「とにかく、毒物を飲んだか食ったかした可能性が強いですね」 「誰がに注射でもされでなげれば、そういうごっだべな」 「もし自分で毒物を服用したのでしたら、その殻なり瓶のようなものがあると思うんですが」  寺本は言った。 「うん」 「それが見あたらないということは、他殺ではないんでしょうか」 「まあ、そう急《せ》ぐな」  五十嵐が言いながら、手袋をした手で、死者の胸ポケットから名刺ケースのような物を取り出した。  二つ折りになったそれを開くと、定期券が入っていた。  弘田辰夫・二十六歳と書かれ、区間は本郷三丁目と中野坂上の間。  営団地下鉄と印刷されているので、東京の地下鉄の定期券らしい。 「死者は東京の人間で、弘田というんですかね」  覗き込んだ、鑑識係員が言った。 「これが死者《ホドゲ》の持ち物ならそうなるべな」  五十嵐が答え、ケースからさらに一枚の名刺ほどの大きさの紙をつまみ出した。  今度は身分証明書のようだった。  それによると、弘田というのは、東京の本郷三丁目にある銀嶺書店という出版社の社員であった。  しかし、そこにも写真は貼ってなく、その後調べたブリーフケースの中からも、免許証の類いは見つからなかった。  ただ、ブリーフケースをどけると、ケースと死体の間から、ドリンク剤の小瓶が出てきた。偶然そこにあったとは思えないので、死者が飲んだ可能性が高い。少なくとも、寺本の言った他殺説の根拠の一つは消えたわけであった。  自殺であろうと他殺であろうと、身元をはっきりさせるのが先決である。  そこで、銀嶺書店に連絡を取るため、寺本と五十嵐は鑑識係員たちを残して、一旦草藪の中から出た。  そのとき、ようやく嘱託医をともなった山田係長たちが到着した。     3  銀嶺書店への問い合わせは、茂浦まで下り、民家の電話を借りて、五十嵐がした。  その結果、死者は弘田辰夫である可能性が強まった。  死者の容姿、服装、持ち物などが弘田のそれに一致していたうえ、彼は昨日の朝、函館へ出張するために東北新幹線で上野を出、午後一時四十五分頃、青森で電話をかけてよこしたのを最後に行方を絶っていたのだ。  五十嵐の話した相手は、弘田の上司で、昨日の午後弘田から電話を受けた小松崎という編集部長だという。  五十嵐はそうした事情を寺本に伝えた後、 「テラさんは、高岡沙也夏ていう女流推理作家を知ってるべがな?」  と、民家を出て峠の展望所のほうへ戻りながら言った。 「小説を読んだことはありませんが、名前だけは新聞の広告などで見かけたことがあります」  寺本は答えた。 「その女流作家は函館に住んでえで、弘田は昨日そごば訪ねる予定だっだらすい。朝、六時に上野ば出る新幹線に乗って……これは、小松崎という編集部長が見送っでえるそんだが……盛岡で『はつかり』さ乗り換え、青森には十一時五十七分に着ぎ、十二時十分の青函連絡船さ乗る予定だった、ていう話なんだが」 「それが、連絡船に乗らなかったわけですね?」 「そんだべな。ある人に会ったんで、次の三時の連絡船さ乗るがら作家先生さ連絡してけろ、と電話があったつう話だがら」 「ある人に会った、んですか?」  寺本はつと緊張し、津軽弁とはなんとなくぴったりこない、西洋人のように鼻の高い五十嵐の顔を見やった。 「そんだらすい」 「すると、そいつが弘田を殺した可能性が強いですね?」 「まだ分がんねが、可能性は高《たげ》え」 「で、小松崎という上司は、弘田の会ったという�ある人�に、心あたりがあるんですか?」 「ねえらすい。青森のあだりに弘田の知りあいなどえねいはずだ、と言うんだ」 「ということは、その人間もどこかから青森へ来ていたか、あるいは、もし計画的な犯罪なら、弘田を尾けてきたかですか」 「まだ殺人と決まったわげでねえし、たどえ殺人だったどしても、その人間を犯人と断定はでぎね」 「そうですが……」  答えたが、寺本は内心、その人間が十中八九犯人に間違いない、と考えていた。 「あ、それで、高岡沙也夏という作家のところへは、その後、弘田から何か連絡があったんですか?」  寺本は肝腎の点を聞き忘れていたのに気づき、言った。 「ねえそんだ。不在のどきは留守番電話をセットしておえだが、そごにも何の伝言も入ってねがったらすい」 「もちろん、弘田に出張の途中で自殺するような理由もないわけですよね?」 「少なぐとも、小松崎は思いあだることがねえ、としゃべっでえる」  それを聞いて、寺本はいっそう自分の考えに自信を強めた。     4  美緒が弘田の死を知ったのは、その日の夕方、青森駅前・新町通りにあるレストランでだった。  土橋滋のアパートを出て、志功記念館に寄り、駅へ戻ってきても、十九時十七分の「ゆうづる4号」までは、だいぶ時間があった。そこで、市の新名所だという青森観光物産館「アスパム」の三角ビルに入って展望ラウンジへ昇り、岩木山、八甲田山などを眺めてから、三六○度マルチスクリーンの映画を楽しみ、青函連絡船の発着を間近に見ながら海辺の遊歩道を歩いてきた。  それでも、まだ六時四十分だったので、夕食をすまそうとレストランへ入った。そして、帆立貝づくしの定食を注文し、見るともなくテレビに目をやっていると、突然弘田の名が飛び出してきたのである。  美緒はびっくりして、座りなおした。  七時の全国ニュースの前のローカルニュースだ。  アナウンサーの声につづき、死体の発見された夏泊半島の山の中が映し出された。  山といっても、海に近い高台らしく、陸奥湾の夕景が時々バックにはいる。警察の車両にまじって報道関係者の車が駐まり、近くの集落から登って来たのだろう、手拭いを被った女たちや子供たちの姿もあった。  死体は百パーセント弘田と確定したわけではないらしかった。が、彼の身分証明書や通勤定期券などを所持し、会社に問い合わせた結果ほぼ間違いない、という。  アナウンサーは、弘田が出張で函館へ行く予定だったこと、昨日の午後上司の小松崎に電話してから消息を絶っていたこと、昨日の午後から夕方にかけて死亡した可能性が高いこと、死因は青酸性の毒物を飲んだ中毒と見られ、体に目立った怪我、傷がないこと……などを伝え、自・他殺両面からの捜査を進めている、と述べた。 「ただ、小松崎さんによりますと、弘田さんには自殺の動機など考えられないという話であり、何らかの事件に巻き込まれた可能性が強い、と警察は見ている模様です。そこで、弘田さんが、『ある人に会ったので青函連絡船を一便遅らす』と小松崎さんに電話している事実を重視し、その人間を参考人として捜しています」  アナウンサーは、さらにつづけた。 「しかし、小松崎さんをはじめとする弘田さんの上司や同僚の方たちは、青森に弘田さんの知り合いがいるといった話はまったく聞いておらず、誰と会ったのか見当もつかない、と話しております」  ニュースが終わった。  美緒がテーブルに目を戻すと、いつの間にか、帆立の刺身、フライ、塩焼き、ソテーといった料理が運ばれ、並べられていた。  美緒は、おなかが空いていたはずなのに、食べる気がしなくなっていた。弘田という人間をほとんど知らないが、自殺の可能性だけは薄いように、彼女にも思えた。  だが、それなら、彼はここ青森で誰と出会い、どうして殺されたのだろうか。  食欲はなかったが、全然食べないでは失礼なので、彼女は箸を取った。  そのとき、ふと小さな疑問が胸に萌《きざ》した。  小松崎たちは、青森に弘田の知人はまったくいなかったと述べた、という点である。  土橋がいるではないか、と思ったのだ。  土橋が単に原稿を一、二度銀嶺書店へ送ってきただけだったら、小松崎は、弘田が青森でいなくなったからといって、土橋の名など頭に浮かばなかっただろう。ところが、小松崎は、弘田に会わなかったかと土橋に問い合わせてきたのだし、美緒が聞いていた土橋の応対から考えると、彼は弘田や小松崎と何度か会っている感じだった。それなのに、小松崎はなぜ�まったく�と言ったのか。  土橋に迷惑をかけまいとして——という可能性は考えられる。彼に電話し、関係ないと分かったので、名を出さなかったのかもしれない。  しかし、そう思いながらも、美緒はどこか小さな引っかかりを感じながら、味のない食事をした。     5  その夜十一時近く、小松崎と、茨城県|古河《こが》市に住む弘田の父親が青森に着き、彼らにより、夏泊半島茂浦で発見された死者は、弘田辰夫・二十六歳であることが確認された。  だが、寺本や五十嵐たちが二人から聞いたかぎりでは、弘田には自殺の動機も、誰かに殺されるような事情も、まるで思いあたらない、という話であった。  事故の可能性は、草藪の中でひとりで死んでいた事実から、考えられなかった。自殺か他殺である。そのうち、弘田が青森で誰かに出会っているらしい点から殺人の可能性がより強い、と見られた。  殺人と確定したわけではないため、捜査本部は設けられなかったが、翌十九日、遺体は弘前大学医学部の法医学教室で司法解剖に付された。  大学から最初の報告が届いたのは、午後である。  その報告と、寺本たちの聞き込みを中心にした捜査、それらに並行して進められていた鑑識の結果を合わせると、夜の会議のときには次のような事実が明らかになっていた。  死亡推定時刻は、十七日(木曜日)午後三時から六時の間。  死因は、市販のドリンク剤と一緒に飲んだ青酸カリか青酸ナトリウム。死体の傍らにあったドリンク剤の瓶から青酸カリが検出され、瓶の表面には複数の指紋に重なって死者の指紋が付いていたので、それを飲んで死亡した可能性が高い。  死体には誰かと争った跡はなく、注意すべき傷もなかった。  死体の脇にあったブリーフケースに荒された跡はなく、小松崎が見たかぎりではなくなっている物もなかったらしい。また、銀行の預金カード、四万数千円の入った財布も残っていた。  死体の発見された現場は、夏泊半島の西海岸、茂浦と浦田の間にある峠。日に数本のバスが通っているだけの、不便な場所である。死体のあったのは、道路から六、七十メートル西へ逸れた、道路工事を中断している山道脇の草藪の中。その峠は陸奥湾の展望所になっているところで、立入禁止の札が掛かった鉄柵の外から、死者の着ていた白いシャツが見えていた。  自殺の場合、東京から来た死者は、徒歩を含めた何らかの交通手段によって現場まで行ったはずだが、これまでのところ、彼らしい人物を乗せたか見かけたかしたタクシー、バス、地元の住民は見つかっていない。  他殺の場合、犯人は別の場所で弘田を殺して遺棄したと考えられるが、死体の周りにあった足跡が死者のものか、それとも別人のものかの鑑別は不可能。  死者の十七日の行動は—— 〈午前六時〉 上野駅で小松崎に見送られ「やまびこ31号」に乗った。予定では、その後九時二十一分に盛岡に着き、九時三十一分発の特急「はつかり3号」に乗り換え、青森には十一時五十七分に着いたはずである。 〈午後一時四十五分頃〉 東京の小松崎に、ある人と会ったため、乗る予定だった十二時十分の青函連絡船をやめ、次の三時の便に乗るから、と電話。その旨、函館の高岡沙也夏に連絡しておいてくれるよう、頼んだ。 〈午後三時〜六時〉 死亡。 (「やまびこ31号」と「はつかり3号」の車掌に当たったところ、はつかり3号の車掌が、弘田らしい男が少なくとも八戸を過ぎる頃まで乗っていた、と述べた。また、念のために、青森を午後十二時十分と三時に出港する青函連絡船の乗船名簿を調べたが、どちらにも弘田の名はなかった)  以上のような点が刑事課長から報告されると、つづいて討議に移った。  捜査員たちはほとんど他殺説を主張し、寺本も、昨日よりいっそうその可能性が強まったのを、感じた。  自殺と考えた場合、不自然な状況が目立ちすぎるのである。  まず、もし自殺なら、なぜ茂浦まで行って毒を飲んだのか、が分からない。  崖から海に飛び込んだ、といった死に方なら、そうした条件の合うところへ行く必要があるだろうが、毒を飲むならどこでもよかったはずだし、彼の死んでいたような場所なら、青森の近くにいくらでもある。  死者にとって、夏泊半島が思い出の地である、といった事実もないらしい。父親も小松崎も、弘田が以前夏泊半島へ行ったという話は聞いていない、というからだ。  次に、死者の横たわっていた場所がおかしかった。自殺する場所として山の中を選んだのなら、人目につきにくいもっと奥へ入って毒を飲むのがふつうであろう。それなのに、彼は、立入禁止の柵の外からシャツの見える場所で死んでいたのである。  もちろん、出張の途中で自殺するといった動機がまったく考えられない点、もし自殺なら、小松崎に「知人と会った」などという嘘の電話をかける必要がなかったはずだといった点、なども自殺の可能性を否定していた。そして、何よりも、もし自殺なら、午後三時から六時という時間、死者が現場まで行った足取りがつかめない、ということが不自然であった。  しかし、そうはいっても、他殺だと断定するだけの証拠もない。  そこで、寺本たちは当面、自・他殺両面から捜査を進める方針を決めた。  第三章 美緒への脅迫状     1  二十一日(月曜日)の夜、寺本は五十嵐とともに、青森を二十一時十九分に出る寝台特急「ゆうづる6号」で上京した。  ゆうづる6号は、ゆうづる2号や4号と違い、電車寝台である。そのため、ベッドは三段で狭く、百七十七センチの身長がある寺本は、一番上段で窮屈な思いをした。  上野に着いたのは、翌朝六時四十分。青森を二時間先に出たゆうづる4号に、わずか三十分遅れただけである。  駅は朝の動きを見せ始めていたが、人を訪ねるには早すぎた。  そこで、二人は一旦駅舎から出て、寺本に多少の土地鑑がある広小路のほうへ歩き、トーストを食べ、コーヒーを飲んだ。  五十嵐は生粋の津軽人だったが、寺本は埼玉県の大宮で生まれた。そこに小学校四年まで住んでいたのだが、父親が交通事故で死亡したため、母親の故郷である青森県の五所川原市へ引っ越したのである。また、警察官試験を受ける前——高校を卒業して一年半ほど——は、川崎にある大手の化学会社の工員をしていたのだった。  寺本も五十嵐も、もう一々口に出さなかったが、弘田辰夫は誰かに殺されたものと確信していた。自殺のセンも完全に消えたわけではないため、表向きは両面調査というかたちを取り、捜査本部は設けられていないものの、�殺人�は、署長や刑事課長を含めた署内全員の認識であった。  出張に行って誰かと出会い、その人間と別れた直後、自殺した——。  こんな可能性は極めて薄いと考えられた。  では、殺人なら、弘田は誰に、なぜ殺されたのか?  動機は見当がつかないが、犯人は弘田が青森で会った人間と見て十中八九間違いない、と思われた。弘田の死がテレビや新聞で報じられた後、その人間が名乗り出ていない事実も、この推理を補強していた。  とはいっても、小松崎と弘田の父親は、弘田に青森周辺に知人がいたといった話は聞いていない、という。  二人の話が事実なら、彼らの知らない弘田の交友関係のなかに青森周辺に住んでいる人間がいたか、あるいは、犯人は青森と関係のない人間か、であろう。  そして、そのいずれであっても、弘田の交友関係や過去を洗う必要があった。  そこで、寺本たちは、銀嶺書店の弘田の同僚、大学、高校時代の友人などに会って話を聞くため、上京したのである。  寺本たちは山手線で東京駅まで行ってから地下鉄丸ノ内線に乗り換え、まず弘田の住んでいた中野坂上のアパートを訪ねた。  銀嶺書店は、十時頃にならないと社員が出社してこない、という話だったからだ。  アパートは、山手通りを東中野のほうへ少し歩き、東に入った住宅街にあった。何の変哲もない二階建てアパートである。  弘田の遺体は、青森で荼毘《だび》に付されて父親が古河の実家へ持ち帰ったので、ここには誰もいない。  自由に部屋へ入って調べてもいい、という父親の了解を得ていたので、二人は隣室で家主の住まいを訊き、寺本が裏へ回って合鍵を借りてきた。  部屋は、六畳に、狭い台所が付いているだけだ。東京は、最近の地価の高騰で家賃がバカ高くなってしまったというから、これでも大変なのだろう。弘田が生きて出て行ったときのままらしく、万年床の上に下着やパジャマが脱ぎ捨てられ、雑然としていた。  寺本は、数日前までここで生活していた男を想像し、複雑な思いにとらえられた。それは、生きているときは自分より恵まれていたであろう、弘田という同い歳の男に対する同情かもしれなかった。運命の不可思議さに対する、あるいは、人間の命のはかなさに対する感慨かもしれなかった。 「自殺する気なら、この部屋だってもっと綺麗にして行《え》ったべ」  五十嵐が言った。 「そ、そうか、そうですね」  寺本は慌《あわ》てて答え、同じものを見ながら自分とは違って事件のことを考えていたらしい上司に感心した。 「ほんじゃ、机から捜してみべが」  五十嵐が言うのを待ち、寺本は、万年床を柏にして足の踏み場をつくった。  それから三十分ほど、二人は、机の上や引き出しの中、本棚などを探り、住所録や手紙、日記、同窓会名簿、名刺ホルダーなどを捜した。  手紙類、名刺ホルダー、中学、高校、大学の同窓会名簿は、すぐに見つかった。  が、日記はつけていなかったのか、見あたらなかったし、住所録——簡単な住所録は、死体の傍らにあったブリーフケースから出てきた手帳に付いていたが、そこには青森県の人間は載っていなかったのである——もなかった。  二人は、ほとんど年賀状だけの手紙類と名刺を調べた。  しかし、そのいずれにも、青森周辺の地名は出てこなかった。  そこで、二人は年賀状と同窓会名簿をつき合わせ、弘田が比較的親しくしていたと思われる中学、高校時代の同窓生二人ずつと、大学時代の同窓生三人を選び、住所、電話番号をメモして部屋を出た。     2  その後、寺本と五十嵐はピックアップした全員に電話をかけ、不在の二人を除いて五人と話し、そのうち三人とは直接会って、さらに詳しい話を聞いた。  だが、結局、彼らの誰からも、弘田を殺す動機を持っていそうな人間についての情報を得ることはできなかった。  大学時代、多少付き合いのあった友達のなかに青森県出身の大久保という男がおり、その男は卒業後、家業の酒屋を継ぐために三沢市に帰っている、と聞いたぐらいが唯一の収穫であった。  この大久保には青森へ帰る途中で当たることにし、寺本たちは午後三時過ぎ、本郷三丁目にある銀嶺書店を訪ねた。  小松崎からは、聞くべきことは聞いてしまっていたが、他の社員のなかに弘田についてもっと知っている者がいないか、と思ったのだ。  応接室で彼らと対したのは、でっぷりした小松崎と、彼とは対照的に痩せた筒井という三十歳前後の男だった。  社内では、この筒井が一番弘田と親しくしていたのだという。 「自殺なんて、絶対にないと思います」  自殺の可能性について五十嵐が質したのに対し、彼は唇の端をちょっと歪め、強い調子で答えた。 「では、誰がに恨まれでえるといったような話を聞いだごどはなえですか?」  五十嵐が、津軽なまりの標準語(というよりは、標準語なまりの津軽弁といったほうが適切かもしれない)で訊いた。 「ありませんね。ですから、僕もわけが分からないんです。部長には、ある人と会ったと電話で言ったそうですし、そいつが犯人にちがいないとは思うんですが、いったい青森なんかで誰と会ったんですかね」  彼は首をひねった。 「社員の他の方《かだ》も、弘田さんの会った人間についで、お心あだりがなえんでしょうが?」  五十嵐が、腕を組んで神妙な顔をしている小松崎のほうへ、顔と質問を向けた。 「あ、ええ、青森から帰って訊いてみましたが、ないそうです」  小松崎がちょっと慌てたように腕を解きながら、椅子の背から上体を離した。 「たしか、弘田君は、部長も知っている人だと言ったそうですけど」  筒井が言った。 「——!」  寺本は思わず声を上げそうになり、傍らの五十嵐を見た。  五十嵐の高い鼻の横の頬が、ぴくりと動いた。  寺本と五十嵐は、小松崎からそんな話は聞いていなかったのだ。  小松崎が戸惑ったように、寺本たちから目を逸らし、シャツのほこりを爪で弾いた。 「ほんとだべが?」  五十嵐が、視線をまっすぐ小松崎の顔に当て、固い声で質した。  いつもの津軽弁になっていた。 「いや、そんなことを言ったような気もしたんですが、本当のところは、はっきりしないんです」  小松崎が、体を小さく動かしながら、落ちつかない様子で答えた。 「すかす、筒井《つづえ》さんは、そう聞がれたんですべ?」  五十嵐が筒井に質問を向けた。  筒井も、自分が余計なことを言ってしまったと気づいたらしく、 「ええ、まあ」  と、困った顔で曖昧にうなずく。 「はっきりしねえにしても何にしても、そしたら重大な事実ばしゃべってくれねえのでは、困りますな」  ふたたび五十嵐が小松崎に顔を戻した。 「私は逆に、曖昧なことをお話しして、混乱させてはと……」 「分がりました。じゃ、その件はもうええですから、弘田さんの言った言葉をできるだけ正確に思い出してくれませんが?」 「それが、どうもはっきりしないんです」  小松崎が首をかしげた。  どこか、わざとらしかった。 「では、筒井さんは、小松崎さんからどのように聞がれだんですが?」 「僕も正確には覚えていないんですが、弘田君は、ある人と会ったために連絡船を一便遅らすので高岡先生に電話しておいてくれ——そう部長に頼んだと聞きました」  そこまでは、寺本たちも小松崎から聞いていることである。 「そすて、小松崎さんが『ある人とは?』と尋ねると、ちょっとした知り合いだと返事をにごして電話を切ってしまっだ、そう聞いだんですがね。そのどき、弘田さんは、部長も知っでえる人だ、としゃべったわげですな」  筒井が困惑したように、目を落ちつきなく動かした。 「だいたい、そんなふうに言ったというような……」 「筒井さんは、えづ、それを聞いだんですが? 弘田さんの死体が見つかる前ですが、後ですが?」 「前です。彼が次の青函連絡船でも函館の高岡先生のところへ行っていない、と分かった頃です」 「すると、十七日の夜ですが?」 「ええ」 「というごどは、弘田さんが死亡してえるどはまだ誰も想像しながった頃ですが……少なぐとも、彼が青森で誰と会ったがは大えに気になっでえだはずですな」  五十嵐がつぶやいた。  そして、何やら考えているようだったが、急に小松崎のほうへ目を上げ、 「で、小松崎さんはえががですか、思い出してえだだげましたが?」  と、訊いた。 「えっ? 何でしょう?」  小松崎がとぼけた。 「もづろん、弘田さんとどういう会話を交わされたが、です」 「それでしたら、すみません、その後、想像もしなかった事態になってしまったせいか、頭が混乱してしまいまして……」 「そんですが。じゃ、思い出したら、それはお知らせえだだぐごどにして……弘田さんが�部長も知っでえる人�と言ったと仮定して、えかがでしょう、誰か思い当だる人間はえませんが?」 「いませんね。いくら考えても、弘田君を殺すような動機を持った人間など、まったく浮かんできません。私にも、青森には知人はおりませんし」  最後に、五十嵐が、弘田の友人で三沢に住んでいる大久保という男を知らないか、と小松崎と筒井の両方に尋ねた。  だが、二人とも、聞いたことがない、と答えた。 「小松崎は、弘田の言ったらしい�部長も知っている人�という部分を、意識的に隠したようですね」  細長いビルを出て、地下鉄の駅へ歩きながら、寺本は話しかけた。  五十嵐が、無言でうなずいた。 「部長がさっき言われたように、弘田がどこにいるか分からなくなり、青森で誰と会ったのか大いに気になっているとき、筒井たちにそう話したわけでしょう、忘れるわけありませんよ」 「うん」  五十嵐が今度は小さく返事をした。 「ただ、そうなると、問題は、小松崎がなぜそれを隠したかですが」 「それが、分がらね」 「ひょっとして、弘田の会った人間に心あたりがあり、その人間を我々に知られると、具合が悪いとか」 「それは一づの可能性だども……すかす、それなら、筒井たづに、弘田が自分も知ってるらすい人間に会った、などと言わながったような気もすんだが」 「ですが、そのときは弘田が殺されているとは思わなかったはずですから」 「なるほど。弘田が殺されだらすいと分がってがら、彼もその人間が誰が見当がついだ、が」 「ええ。ただ、自分の部下が殺されても黙っていなければならないような事情というのが、見当もつきませんけど」 「すがす、これで、小松崎の周辺を探ればなんが出できそうだな。課長に電話して、もう一日、二日、滞在を延ばしてもらうべが」  明日、古河の実家で弘田の葬儀が行なわれるので、寺本たちはそこへ顔を出し、そのまま青森へ帰る予定であった。  だが、五十嵐は、もう一度東京へ引き返そうというのだ。  一日や二日で、どこまでできるかは分からない。とはいえ、初めて、意味のありそうな事実にぶつかったのである。その手応《てごた》えに、寺本はかすかに胸の昂《たかぶ》りを感じながら、本郷三丁目の交差点を渡った。     3  翌二十三日、秋分の日、寺本たちは古河へ行き、弘田の葬儀に来ていた彼の友人、知人たちから話を聞いた。  そのなかには、十七日に弘田が訪ねる予定だった函館在住の作家、高岡沙也夏がいたし、彼女と一緒にしばらく弘田の来るのを待っていた、清新社の笹谷美緒という編集者もいた。  笹谷という編集者は、弘田とは同業者の集まりで数回顔を合わせただけで、口をきいたことはないという。が、今回の妙な因縁から、編集長の代理として葬儀に参列したという話だった。  話を聞いたといっても、彼女たちは函館で弘田を待っていただけで、弘田が殺された事件に直接関係してきそうな事実は何一つ知らなかった。笹谷美緒は、たまたまその日に函館に行っていたにすぎなかったし、高岡沙也夏にしても、弘田から「青函連絡船を一便遅らせる」という連絡を直接受けたわけではない。弘田が電話したらしい頃、街へ買物に出ていたということで、後で東京の小松崎から間接的に知らされたのである。  そうした彼女たちの話は、小松崎から聞いていた事実と完全に一致していた。  そこで、寺本と五十嵐は、二人からはじきに離れ、小松崎に気づかれないよう、銀嶺書店の社員たちを個別に物陰などに呼んで当たった。  小松崎が、弘田が青森で会ったという人間について社員たちにどう言ったか、その人間について心あたりはないか、といった点について質したのである。  その結果、「小松崎も知っている人間だ」と弘田が電話で言い、小松崎が社員たちにそう伝えたのは、ほとんど確実になった。銀嶺書店からは社長を初めとして十四、五人参列していたが、五人の社員に当たり、そのうち二人が筒井と同じように聞いた、と明言したからだ。  しかし、その二人にしても、弘田や小松崎に青森周辺に知人がいるといった話は聞いたことがなく、弘田が会った人間にはまるで心あたりがない、という返答だった。  寺本と五十嵐は、さらに弘田の友人、近所の人たち……とこまめに聞いてみたが、あまり得るところはなかった。弘田という男は多少お調子者だったらしいものの、争いごとは好まず、少なくとも誰かに恨まれて殺されるといった事情は想像できない、と誰もが言うのである。  寺本たちは、葬儀が終わった後も何人かに当たり、夜、東京へ戻った。  宿は、上野の鶯谷に安いところを確保してあったので、そこに泊まった。  翌日は、まず、小松崎が出社した頃を狙って調布市の彼の自宅を訪ね、妻から話を聞いた。  次いで、彼女から聞き出した、小松崎が学生時代から付き合っているという他社の雑誌編集長など、彼の知人数人に会い、最後に筒井を御徒町の喫茶店に呼び出して、一昨日小松崎が同席していたときには訊きにくかった点などを質した。  しかし、それらのどこからも、弘田が青森で会ったと思われる人間を突き止める手掛かりになる話は聞けないまま、二人は、上野を二十三時に出る寝台特急「はくつる3号」に乗り、帰路についた。  翌朝三沢で降り、弘田の大学時代の友人、大久保を訪ねたが、彼には十七日ずっと三沢市内にいたというアリバイが成立し、このセンも消えた。  弘田が誰かに殺されたのは九分九厘というより、もう百パーセント間違いない、と寺本は思う。  が、東京へ行っても、結局、弘田が会ったと思われる人間はもとより、殺害動機の片鱗さえもつかめなかったのだった。  寺本も五十嵐も無口になっていた。  浅虫温泉駅に停まる「はつかり1号」に乗ってからも二人はほとんど話らしい話をせず、寺本は、窓の外に目を向けながら、重い気持ちで自問をくり返した。  弘田はいったい誰と会ったのか? なぜ殺されなければならなかったのか? 犯行は計画的なものだったのだろうか? 小松崎はその人間に心あたりがあるのだろうか? もしあるなら、なぜ黙っているのか?     4  十月一日(木曜日)、美緒は仕事を早めに切り上げ、壮と待ち合わせて劇を観た。  水上勉の「五番町夕霧楼」である。吃音《きつおん》の青年修行僧が京都・金閣寺に火をつけたという現実にあった事件をモデルにし、その修行僧に、夕子という遊女の悲しい運命をからませた劇だ。  美緒は、明かりが点《つ》いたとき、ハンカチで目頭をおさえていた。  この前は、有馬稲子演ずる「越前竹人形」を鑑賞し、今度はこの「……夕霧楼」。いずれ「越後つついし親不知」もぜひ観てみたいと思っている。  それにしても、水上勉の作品はどうしてこんなに激しく、哀しく、優しいのだろう。今度の劇では、青年僧を演じた役者にちょっと深みがなくものたらなかったが、夕子を演じた佐々木愛は素晴らしかった。それほど好きな女優ではなかったのに、美緒はいっぺんでファンになってしまった。  こうした劇を観た後は、美緒はいつも満たされた気持ちで家路につく。壮を相手に感想を話し、彼の同意を求める。  相棒は、いつものごとく、感動したのかしないのか分からない調子で「ええ」とか「そうですね」としか答えないが、美緒に誘われるのを嫌がっている様子はない。というより、この前は、 「最近、ちょっと劇を観ていませんね」  などと言って、美緒を驚かせた。 「あら、観たいの?」  美緒がすかさず顔を見つめると、 「いえ、そういうわけじゃありませんが」  と、少し照れたように、目を逸《そ》らしてしまったのだったが……。  十時過ぎ、美緒は中央線の西荻窪駅で降りた。壮も一緒である。彼は高円寺のアパートに住んでいるのだが、九時を過ぎて一緒に帰るときは、たいてい送ってくれる。  自動車通りを渡って静かな住宅街の道へ入ると、美緒は壮の腕を抱くようにして歩いて行った。  相棒のほうは、うら若き乙女の肌の温もりなどまるで感じていない顔だ。頭の中では、ひょっとして宇宙人の暗号でも解いているのかもしれない。この前は、人の姿のない薄暗い通りでキスをさせるところまで�前進�したが、その後はさっぱり。以前、婚前旅行までして、二度も機会を作ったのに、二度とも思わぬハプニングでだめになり、このごろでは美緒も半分ヤケになり、もうなるようになればいいわ……と諦《あきら》めかけている。  もっとも、なるようになるのは、この分ではいつになることやら、まったく予測がつかず、いまも、 〈この宇宙人、緑の血液でも流れているんじゃないかしら?〉  と、鼻筋の通った端整な顔を恨めしげに見上げ、自分の家の前まで通り過ぎそうになった。 「美緒さん、ここですけど」  壮が遠慮がちに言って、足を止めた。 〈分かってるわよ、鈍感〉  美緒は相棒をにらみ、もう一度ぎゅっと抱きしめてから腕を放した。  美緒の家は戦前に建てられた平屋で、生垣の中に多少の庭もついていた。  壮が木戸を開けた。一緒に中へ入って、チャイムを鳴らすと、待っていたように母の章子が出てきた。 「おかえりなさい」  壮に対する挨拶である。  このごろ、美緒と一緒のときは「いらっしゃい」なんて言わない。  大事な一人娘のほうは一瞥しただけで、壮の顔を見てニコニコしている。  無口なテキは、マスクと頭脳の故に、章子の覚えがめでたいのだ。 「やあ、おかえり」  父の精一も奥から出てきた。  章子が、昔の女学生がそのままおとなになったようなおっとりした性格なら、こちらは壮以上に学者バカを絵に描いたような人間。章子がいなくなったら生きてゆかれないんじゃないか、と美緒は時々本気で心配になる。また、合理主義の権化で、車は走ればいい、扇風機は回ればいい、傘は雨をしのげればいい、衣服は寒くなければいい……といった調子で、いまに博物館が引き取りにきそうな旧型のポンコツ車に乗っている。  この父と母、色とか恋にはまるで縁がないように見えながら、恋愛結婚だったというから驚く。そして、章子が時々ディスコへ誘うと、精一も満更でもない顔をしてついて行くのである。 「御飯は?」  章子が訊いた。 「劇を観る前に軽く済ませたわ」  美緒は答えながら、壮にも上がるよう促した。 「劇は面白かったの? 黒江さんはご迷惑だったんじゃないのかしら」 「いえ、そんなことありません」  テキがやっと口をきいた。 「素晴らしかったわよ、ねえ?」 「ええ」 「今度、お母さんも、お父さんを誘って行ってきたら? この人だって感動したんだから、お父さんだって解るわよ」 「おいおい、ばかにするんじゃない。私と母さんだって、美緒が生まれる前、劇くらい観に行ったよ」 「本当?」 「たしか二度だけね」  章子が怨ずる目を夫に向けた。 「そうだったかね。……ああ、それより、美緒にちょっと妙な手紙がきていたようだったが」  精一が逃げ、四人は居間へ入って行った。  手紙は居間のテーブルに置かれていた。 「妙な手紙って、これ?」  美緒は手に取ってみた。 「宛名と名前が、定規をあてて書いたみたいな字だろう。しかも、差出人の名がない」  精一が言ったが、その通りだった。  消印の場所、日時は、東京中央郵便局、九月三十日(昨日)十二時から十八時。 「嫌ね、脅迫状みたい」  美緒は眉根を寄せて言ったものの、本気でそう思ったわけではない。  どう考えたって、自分に脅迫状など届く理由がないからだ。 「とにかく、開けてみたらいい」 「そうね」  美緒がバッグをテーブルに置くと、章子がハサミを取ってきた。  そこで、美緒は封を切り、中身を取り出した。  それは、四つ折りにした一枚の薄い紙で、中央に、ワープロで打たれた次のような短い文が記されていた。 〈いつまでも、何一つ新しさのないつまらん小説ばかり出していると、貴様もいずれ銀嶺書店の弘田のようになるからな〉  美緒は、しばらく声が出なかった。  まさかと思った脅迫状だったのである。 「何が書いてあるの?」  美緒の顔は蒼白になっていたのかもしれない、章子が心配そうに訊いた。  美緒は答えるかわりに、傍らに立っていた壮に手紙を手渡した。  壮が黙って読み、それをさらに精一に渡した。 「これ、なーに?」  夫の手元を覗き込んで、一緒に読んだ章子が、顔色を変えて言った。 「悪戯でなかったら、脅迫状だが」  精一が固い声で応じた。 「銀嶺書店の弘田さんというのは、美緒が函館へ出張したとき青森で亡くなった、という方だったわよね」 「そう」  美緒はうなずいた。そのときの顛末は、壮にも両親にも詳しく話してあった。 「あれはたしか二週間前でしたね。殺された可能性が強いというところまでは聞きましたけど、その後、どうなったんですか?」  壮が訊いた。 「おととい、銀嶺書店の編集者に会ったとき聞いたら、捜査はほとんど進んでいないらしいわ」  美緒は答えた。  両親だけでなく、自分には壮も付いているのだ、という思いが、彼女の気持ちを少し落ちつかせた。  この宇宙人、一見頼りなげに見えながら、いざとなると実に頼りがいのある存在であることは、すでに実証済みだからだ。  もちろん、頭脳は抜群だが、意外に行動力もあるのである。 「悪質な悪戯よね?」  章子が夫に言ってから、壮に目を移し、 「黒江さん、そうでしょう、悪戯に決まっているわよね」  彼の保証の言葉を求めた。 「そうだと思いますが……」  壮が困ったように答えた。  美緒も、悪戯である可能性のほうが強いと思う。しかし、現実に弘田が殺されている事実を考えると、怖ろしかった。  このところ、狂人の仕業としか考えられないような凶悪な犯罪が何件も起きている。それも、表面は、軽いゲームのような様相を呈しながら。 「ただ、もし悪戯でなかったとしたら」  と、壮がちょっと考えてから、言葉を継いだ。「この手紙は、弘田さんという人が、誰に、なぜ殺されたのかという謎を解く重要な手掛かりになるはずですが」 「うむ、それはそうだ」  精一がうなずいた。 「でも、何一つ新しさのないつまらん小説って、どういうことかしら? こんな言いがかりで人が殺されたら、出版社の人はたまらないわ」  章子が抗議するように言った。 「手掛かりとはいっても、そうした文面は、弘田さんを殺した犯人が、本当の動機を感づかれないようにした目くらましかもしれません」 「しかし、弘田という人の殺された動機が、まだ分かっていないとしたら、わざわざこんな手紙を出す必要はなかったと思うがね」  精一が壮の推理に疑問を挟んだ。 「だったら、悪戯でなかった場合、どうなるのかしら? 私を本当に殺すつもりなのかしら」  美緒は言った。 「それはないと思います」  壮が否定した。「もし、警察をミスリードしようとしたものでなければ、逆に、弘田さんを殺した動機を暗示したかった、という可能性もあります」 「暗示しても安全だ、という自信があってのことね?」 「そうです。ですから、いずれにしても、こうした手紙を受け取ったのは美緒さんだけだったのか、それとも他にも同じような手紙を受け取った者がいるのか、もし美緒さんだけだったとしたら、なぜなのか……そうした点を調べ、よく考えてみれば、この手紙の裏に隠された犯人の真の動機も分かってくるような気がします。  もちろん、以上は、これが犯人の手紙だったと仮定しての話ですが」 「うむ。だが、我々だけじゃそれを調べられんだろう。勝部長刑事に相談してみないかね」  精一が結論づけるように言った。  勝俊作——。  警視庁刑事部捜査一課殺人班のベテラン部長刑事だ。年齢は五十三、四歳。痩せて猫背の、一見さえない風采だが、人情の機微を解する優秀な捜査員だった。壮がある事件捜査に協力して知り合い、その後も懇意にしているのだが、特に精一は、入試詐欺事件に巻き込まれ、彼に助けられてから、すっかり�勝ファン�になっていたのである。  ここで、いつもなら、美緒は、 「困ったときの勝だのみね」  と茶々をいれるところである。  しかし、今夜は、事が自分の身にふりかかった問題だけに、そんな軽口を言う心のゆとりがなかった。 「そうですね。勝部長さんに話し、青森県警のほうへも伝えていただいたほうがいいですね。そうすれば、僕たちも詳しい捜査状況を聞けますし」  壮が言った。  美緒の身を案じてという理由もあってか、彼は早くも事件の謎に取り組むつもりになっているようだった。     5  翌朝、美緒はいつもより三十分ほど早い九時四十分に出社した。  当分、できるだけ一人にならないほうがいいだろうということで、父の精一と一緒に家を出たからだ。  エレベーターをつかわずに三階まで上り、文芸部の部屋へ入って行くと、珍しく、編集長の西村が来て、自分の席で煙草を吹かしていた。  他には誰もおらず、本や原稿などが雑然と載った机が並んでいるだけである。  始業は一応九時半という決まりになっているものの、だいたい十時を過ぎないと、誰も出てこない。それは、美緒も西村も同様であった。 「おはようございます」  美緒が挨拶すると、 「やあ、早いね」  西村が、唇に笑みを浮かべた顔を向けた。 「編集長こそ、何か急ぎのお仕事でもあったんですか?」 「いや」  西村がふっと笑みを消し、緊張した顔つきになった。  それを見て、美緒は、もしかしたら……と思った。  今、彼女は、例のワープロ文字の手紙をショルダーバッグに入れて持っている。編集部員がみな揃ったところで、同じような手紙を受け取った者がいないかどうか、訊いてみるつもりだった。勝に相談するのは、美緒がその確認をしてからのほうがいいだろう、というのが昨夜の結論になったのだ。 「編集長、もしかしたら、変な手紙がきたんじゃありませんか?」  美緒は、訊いてみた。  西村が、びっくりした表情をした。  どうやら当たっていたらしい。 「これですけど」  美緒は、バッグから手紙を取り出して、彼の机の横へ歩いて行った。 「笹谷くんにも……」  彼が、自分の机の上に置かれた手紙から美緒の顔に視線を移しながら、つぶやくように言った。 「やはり、編集長にもきていたんですか」 「うん」  西村がうなずいて煙草を消し、引き出しから、美緒宛のものと同じ線文字で住所、氏名の書かれた同種の封筒を出し、机の上に並べた。 「文字も消印も同じですが、中身の文も同じでしょうか?」 「出していいかね?」 「はい」  西村が、二通の封筒から同じ薄いワープロ用紙を出し、開いた。 「同じだ」  先に読んで、言い、二枚の紙を美緒の読みやすいように向けた。 「一字一句、違わないわ」  美緒も読んで応え、頭頂がだいぶ薄くなった編集長と顔を見合わせた。 「悪戯だろうと思っても、気になってね」  西村がちょっと照れたように笑った。 「私もです。それで、みんなが出てきたら、確かめてみようと思っていたんです」 「うん。あと、他社の編集者にもいっているかどうかだが」 「編集長のほうから、それとなく尋ねられませんか?」 「何人かには訊いてみよう。残念ながら、銀嶺書店の小松崎さんとはほとんど付き合いがないので、ぶしつけな質問をするわけにはいかんが」 「小松崎さんには、警察に確認してもらいます」  美緒はここで、昨夜壮たちと相談した話を明かした。  壮が最初に解決した事件は清新社に関係があったため、彼の優秀な頭脳は西村たちも知るところなのである。 「そうか、またきみの名探偵と勝刑事が登場すれば、悪戯であろうとなかろうと、たちどころに解決だな」  西村が初めて、煙草の脂《やに》で黄ばんだ歯を見せて笑った。  ホッとした顔だった。  いずれ弘田のように……という文は、もし本気なら、「おまえも殺す」という意味である。それだけに、昨夜来、彼は不安にさいなまれていたにちがいない。それが、同じ手紙が部下の美緒にもきていたと知ったうえ、壮と勝がタッチしてくるらしいと聞き、安心したのだろう。  美緒たちが話していると、間もなく他の編集部員たちが出社してきた。  作家の家へ直行したり遅れる者が三人いたので、九人だ。  他社では、単行本、新書、文庫というように判型で編集部が分かれているところが少なくない。が、清新社は、文芸部として、編集長の西村を含めた十四人で、文庫から単行本まで文芸書のすべてを、こなしているのである。  部員たちが外へ飛び出して行ってしまう前に、西村が事情を話し、自分と美緒宛にきた手紙を公開した。  すると、デスクの神山のところへ同じ手紙がきていただけで、他の者にはきていなかった。  午後になり、朝いなかった三人が出て来ても、それは変わらなかった。  また、その間に西村が他社の編集者数人にそれとなく尋ねた結果も、そんな手紙を受け取った者はいないようだった。 「編集長とデスクだけなら分かるが、なぜお美緒もか、だな」  遅く出てきた三人のうちの一人、木内永祐が事情を聞いてさかんに首をひねった。 「もちろん、私も編集長やデスクなみに出世したってことよ」  美緒は言ったが、内心気味が悪かった。  仲間が二人できたといっても、なぜ自分だけヒラの下っ端が選ばれたのか、分からなかったからだ。 「こりゃ、編集長とデスクはつけたりで、お美緒が本命かもしれないぞ」  木内が脅した。 「どうせ悪戯に決まっているわ」 「いや、分からん。銀嶺書店の弘田君だって、お美緒とたいしてかわらない若い編集者だったんだし」  言われると、美緒は段々恐くなってきた。  勝には壮から連絡がとられ、夕方、壮と一緒に警視庁を訪ねる予定になっている。早く会社がひけないか、と時計ばかり気になりだした。 「ひょっとして、笹谷はんと弘田君が共通して担当してはる……いや、過去にしとったでもええが、そうした作家に何か関係があるんとちゃうかね」  前の席の石川吾郎が言った。 「そんなはずありえないわ。私、担当している先生方のどなたにも、恨まれるようなことなんてしてないもの」 「笹谷はんはそう思っていても、相手は意外なところで……」 「木内さんと石川さんは、出世の邪魔になる私をどうしても殺したいみたいだけど、お生憎さま、そう簡単には殺されないわよ」  美緒は石川の言葉を遮って言ったものの、彼の推理は一理あると思った。  担当していた作家だけでなく、自分と弘田の共通項を捜し出せば、あるいは、そこから犯人が浮かんでくるかもしれない。     6  同じ日、午後四時。  寺本と五十嵐は、本郷三丁目で地下鉄を降り、銀嶺書店へ向かって歩いて行った。  小松崎に会うためである。  一週間ぶりの東京だった。  この間、県警本部のお偉方が弘田辰夫の死を他殺と断定し、青森東署に捜査本部が置かれた。が、犯人に結びつきそうな手掛かりはどこからも得られなかった。  そこへ、今日の十一時近く、警視庁から、事件に関係しているかもしれない情報が入った、との連絡を受けた。  連絡をくれたのは捜査共助課の刑事ではなく、勝という捜査一課殺人班の部長刑事である。彼が個人的に親しくしている清新社の編集者に妙な手紙が届いたのだという。  勝は、手紙の内容を説明した後で、悪戯の可能性も強いと言った。  しかし、編集者の名が、寺本たちが前に事情を聞いた笹谷美緒だと知り、彼らは驚いた。  もっとも、事情を聞いたといっても、笹谷美緒は事件に直接の関わりがあったわけではない。だから、今度、脅迫状が彼女のところへきたのは偶然かもしれない。  そうは思ったものの、彼らはこだわりを感じ、打つ手に窮していたという事情もあって、三沢を一時三十分に発つ飛行機で(青森発の便は三時半までなかったので)、文字通り飛んできたのである。 「小松崎にも脅迫状がきているでしょうか」  交差点を渡って、本郷通りを南へ向かって歩きながら、寺本は五十嵐に話しかけた。 「どんだべな」  五十嵐が考える顔をして答えた。 「きていても、我々にはまた嘘をつくかもしれませんね」  五十嵐がうなずいた。  彼らは、羽田に着くと、警視庁の勝に電話を入れた。  すると、笹谷美緒の上司二人にも同じ手紙が届いていた事実が新たに判明した、と告げられた。そして、彼女と会う約束の六時まで時間があるので、小松崎にも手紙が届いていないかどうか調べてみては……と提案されたのだった。  寺本たちはビルを入り、銀嶺書店編集部のある六階までエレベーターで昇った。  小松崎は外出中であった。  五時前には帰るだろうという。  それなら、と二人は応接室で待たせてもらうことにし、筒井と、弘田の葬儀で会った何人かの編集部員に、手紙の件をそれとなく訊いてみた。  しかし、誰も笹谷美緒に届いたような手紙を受け取った様子はなく、彼らに聞いたかぎりでは、小松崎もそんな話はしていないようであった。  五時に近くなった頃、ドアの外に話し声がしたので小松崎が帰ってきたのかと思ったら、一人の編集部員が三十歳前後の長髪の男をともなって入ってきた。 「こちらも小松崎に用事があって見えた方ですので、しばらくここでご一緒させてください」  編集部員の言葉につづき、薄茶のブレザーを着た男が、上目づかいに寺本たちを窺い、頭を下げた。  編集部員が出て行き、 「どんぞ」  五十嵐が津軽弁で言うと、男は一瞬びっくりした表情をして彼の顔を見たが、すぐに視線を下向け、前に腰をおろした。  青白い顔をした、神経質そうな、陰気な感じの男である。  寺本たちと目を合わすのをさけているのだろうか、始終顔をうつむけている。  小松崎を訪ねてきたというから、作家なのだろうか。  寺本がそう思っていると、五十嵐も同じ疑問というか好奇心を覚えたらしい、 「失礼《しづれい》ですが、小説家のかだですが?」  と、訊いた。 「ええ、いえ……」  男がちょっと目を上げ、どっちともつかない返事をした。  戸惑ったような、迷惑そうな顔だった。  そこで、関わりのない人間にそれ以上尋ねるのは失礼と思ったのだろう、五十嵐が黙ってしまったので、男がどういう人間なのか、分からなかった。  それでいて、寺本と五十嵐が小声で言葉を交わすと、男はこちらの素性が気になるのか、ちらちらと探るような視線を向けてきた。  小松崎は五時を十五、六分過ぎてやっと帰ってきた。  部屋へ入ってきたときの彼は、ひどく落ちつきを欠いた様子で、 「すみません、ちょっとお待ちください」  寺本たちに言うと、まっすぐ前の男に近づき、何やら耳元でささやいて彼を部屋の外へ誘った。  別のところで待っているようにとでも言ったのだろうか、一、二分して、 「申しわけありません」  と、戻ってきた。  その顔には、戸惑いを隠す笑いが浮かんでいた。 「えまのかだも、やはり作家の先生ですが?」  五十嵐が訊くと、 「ええ、まあ、そうです」  男と同じ曖昧な答え方をした。 「ええんですか?」 「外の喫茶店で待ってもらっていますから」 「では、さっそぐですが……」  五十嵐が時計を見、こっちもゆっくりしていられないと判断したのだろう、用件を切り出した。  笹谷美緒の名は出さずに、似たような手紙がこなかったか、と訊いたのである。 「そんな手紙は、受け取っていませんね」  小松崎が言下に答えた。  驚いた様子だった。この前と違って、嘘をついているようには見えなかった。 「いったい、どこの社の何という編集者に手紙はきたんでしょうか?」  彼は、真剣な顔で反対に訊き返してきた。 「それは、小松崎さんが我々に隠しでえるごどを話してくれだら、我々も教えます」  五十嵐が言った。 「私は何も隠してなんかいませんよ」 「そんだべが。あんだは、弘田さんが青森で誰に会っだか、見当がつえでんでなえですが?」 「まさか。私に見当がつくわけがない」  小松崎が笑った。  しかし、その目の表情は、手紙の件を否定したときとは違い、明らかに落ちつきがなくなっていた。     7  寺本と五十嵐は、約束の六時に十二、三分遅れて、警視庁に着いた。  同じ警察官といっても、桜田門の三叉路にそびえる十八階建てのこの白いビルを訪れるのは、二人とも初めてである。  正面玄関を入った左の受付で、寺本が緊張して名を言うと、勝が伝えておいてくれたらしく、すぐ近くの応接室を教えられた。  待っていたのは、痩せて小柄な初老の男、二十四、五歳の澄んだ目をした知的な感じの女性、それに五十嵐に勝るとも劣らない端整な顔をした若い男の三人だった。  女性は、弘田の葬儀のとき会った笹谷美緒である。そして、初老の男は穏やかな笑みを唇に浮かべながらも、どことなく鋭さを秘めている印象があるので、勝部長刑事だろう。  寺本はそう直感した。が、彼と五十嵐が入って行ってもほとんど表情を変えずに笹谷美緒の横に座っている男が誰なのか、見当がつかなかった。 「どうも遅《おぐ》れまして、申しわげありません」  五十嵐が言って、寺本とふたり頭を下げると、やはり初老の男が立ってきて、警視庁の勝と名乗った。  寺本たちも名刺を出して自己紹介し、勝に促されてテーブルのそばに進んだ。 「笹谷さんはご存知だそうですが、こちら……お隣りは、我々がこれまでに何度もお世話になっている、笹谷さんの友人で数学者の黒江壮さんです」  勝が黒江という男の素性を簡単に紹介し、次いで、寺本たちを彼に紹介した。  笹谷美緒と黒江壮が、立ち上がって頭を下げ、寺本たちも「先日はどうも……」「よろしく」とそれぞれに言って、一緒に腰をおろした。  寺本は、黒江という男がなぜこの場にいるのか、まだ分からなかった。単に笹谷美緒に付きそってきただけなら、勝が、「我々がこれまでに何度もお世話になった」などとは言わないはずであろう。 「勝部長さんたづが、こちらの黒江さんにお世話になったつうことは……?」  五十嵐も同じ疑問を感じていたらしい、勝に訊いた。 「それは、我々警視庁の恥を晒すようなんですが……」  勝が頭を掻き、黒江という男の推理によって何件もの難解な事件を解決した経緯を話した。  ズーズー弁の端整な顔の男が、はにかんだようにもじもじしているもう一人の整った顔の男をじろりと見ながら、 「そんですか」  と、言った。  五十嵐の心の内には、警視庁がこんな素人に……という驚きと軽蔑と安心感が複雑にいりまじった思いがあるのを、寺本は感じた。もちろん言葉には出さないが、寺本も同じだったからだ。そして、東北の田舎から出てきて、天下の桜田門に圧倒されていたのが、少し気が楽になったのである。警視庁の捜査一課も、こんなド素人の力を借りているようじゃ、思ったよりたいしたことねえな——そう思って。  気持ちが楽になったところで、寺本たちは笹谷美緒の話を聞き、彼女にきたワープロ文字の手紙を見せてもらった。  次いで、自分たちも、勝に問われるまま、これまでの捜査の状況と、いま会ってきた小松崎が何か隠しているらしい、といった印象などを話した。 「ですが、小松崎に手紙がきでなえのは、どうも事実と見でええようです」  説明の最後に、五十嵐が言った。 「そうですか」  勝がうなずいた。  この間、黒江という男は、一言も口をはさまない。黙って、笹谷美緒や勝、五十嵐の説明を聞いていただけである。 「これは、五十嵐さんたちを待っているとき笹谷さんが言われたんですが」  と、勝が少し間をおいてから言った。「もし、この手紙が悪戯でなかったとしたら、清新社の編集長とデスクと笹谷さん、それに弘田さんの共通項を捜したら、犯人が浮かび上がってくるんじゃないか、というんです」 「なるほど、たすかにそんですな」  五十嵐が心持ち明るい声を出した。 「で、銀嶺書店の知り合いの編集者に電話され、弘田さんの担当していた作家を調べてみてくれたんです」 「はあ」  勝が、それから先は直接話してくれないかというように、笹谷美緒に目を向けた。 「でも、少なくとも、そこからはまったく怪しい人は浮かんでこなかったんです」  彼女が勝の意を受けて、つづけた。「私の担当している先生の原稿はデスクも編集長も目を通しますけど、デスクの担当している先生の原稿を、出版される前に私が読むということはありません。ですから、四人の共通項といっても、それは私と弘田さんの共通項と見ていい、と思うんです。  私と弘田さんが共通して担当していた先生はお二人だけでした。そのうち、五十嵐刑事さんたちがこの前お会いになった高岡沙也夏先生は、私の担当といっても、函館で弘田さんを待っていた十七日に初めてお訪ねしたにすぎませんから、関係がないはずです。  それで、高岡先生を除外しますと、あとはご高齢な三島祐之介先生だけになってしまうんです」 「その三島先生とゆうかだは、どごに住んでおられんですが?」  五十嵐が訊いた。 「神奈川県の逗子です。足がご不自由で、いまでは近くを散歩されるのも大変なようですから、密かに青森へ行くなんてことはできません」 「なるほど……」  五十嵐がうなずき、困ったというように、頬に手を当てた。 「あの、いいでしょうか?」  そのとき、黒江という男が初めて口を開いた。 「どうぞ」  勝が答えた。 「お話を伺っていて、美緒さんの考えられた共通項という観点に、�弘田さんが青森で会ったのが小松崎編集部長も知っている人間だった�という事実を重ね合わせると、何かが出てきそうな気がしたんですが」 「それは、つまり、弘田が青森で会っだのは笹谷さんもご存知の人間だった、つこどですが?」  五十嵐が、心持ちきつい視線を黒江壮に当てて質した。 「その可能性もあるんじゃないか、と思ったんです」  黒江壮が、五十嵐の視線に目を逸らすでもなく、逆に挑戦するように見返すでもなく、気負いのない自然な調子で言った。 「では、笹谷さん、えかがでしょう、何が心あだりがありませんが?」  五十嵐に質問を向けられ、笹谷美緒が考えるように首をかしげた。 「ただ、これは、弘田さんが小松崎さんに電話したとき言った言葉が事実であり、美緒さんにきた手紙が犯人からのものだったと仮定しての話ですから、その前提が崩れてしまえば、どうにもなりませんが」  黒江壮が付け加えた。 「すぐなぐとも、弘田の言葉は事実だった、と我々は考えでえます。その点、明らがに小松崎は嘘をついでえます」 「小松崎さんの件は、五十嵐部長さんのおっしゃる通りでしょう。ですが、その前に、弘田さんも嘘をついている可能性だって、ありますから」 「弘田が! 弘田がどうして嘘などしゃべる必要があるんす? 小松崎の知りもしねえ人間に会っだのに、どうして知った人間に会っだなんてしゃべんねば、なんねんす?」 「分かりません。僕はただ、一応その可能性もありえないわけではない、と言っただけです」 「すがす……」 「まあまあ、黒江さんはあくまでも可能性の問題で言われたわけですし、それより、初めの仮定が事実だったとして、笹谷さんに考えていただいたほうが……」  勝が割って入り、 「あ、これは、どうもすみません」  と、五十嵐が頭を下げた。「つい、つまらねごどでムキになってしまっで」  つまらんという言葉に、彼は黒江壮に対する皮肉をきかせたつもりだろう。だが、黒江という男は鈍いのか、大人物なのか、まるで変わらない顔をしている。  それを見て、寺本は、ふとかすかな不安を感じた。黒江壮が言ったように、たしかに弘田が嘘をついた可能性もないわけではないからだ。そして、弘田の言葉がもし嘘だったとしたら、自分たちは根本から考えなおさなければならないのである。  しかし、寺本がそんなふうに考えたのもほんのわずかの間だけで、 「で、いかがでしょう、笹谷さん」  勝が笹谷美緒に質問を向けたので、現実に注意を引き戻された。 「考えているんですけど、弘田さんや小松崎さんと私が共通して知っている方といっても、文壇や出版社関係のなかには沢山おられますし……」  笹谷美緒が困ったように答えた。 「青森の近くに、そういう方はいないんですか?」 「ええ」 「我々があだったかぎりでも、弘田や小松崎には青森周辺に知人はえなえようなんです」  五十嵐が言った。  そのとき、笹谷美緒の澄んだ瞳の奥で、光の影が揺れた。 「何か?」  すかさず勝が訊いた。  冴えない風采だが、そのあたりの呼吸はさすがだと寺本は思った。 「あ、いえ、たぶん関係ないと思いますので」 「ですが、何かお心あたりがあったわけですね?」 「ちょっと、あることを思い出したものですから」 「どういったことでしょう? 差し支えないようでしたら、聞かせてくれませんか」 「でも、無関係な方にご迷惑をかけては申し訳ありませんので」 「もしかしたら、青森に、笹谷さんや弘田さんの知っておられる方がいたのでは?」  勝の目がひたと笹谷美緒に当てられた。その目は、研ぎすまされた刃の鋭さとは違うが、人の心の奥に隠されたものを見抜く力を秘めているように見えた。  寺本は、勝という一見パッとしない刑事に、次第に魅力を感じ始めた。 「いかがですか?」 「その通りなんですけど」 「弘田や小松崎に、青森に知人がえだんですが?」  五十嵐が高い声を出した。 「ええ。それで、弘田さんには青森周辺に知り合いはまったくいない——そう小松崎さんが言われたというニュースを見たとき、ちょっと変だなとは思ったんです」 「んでしたら、なぜそれば、この前会っだどぎ教えでくれながっだんですが?」 「今、�私と共通した知人�という条件を考えていて、思い出したんです。それまで、変だなと思った点も含めて、忘れていたんです。知人といっても……たぶん小松崎さんや弘田さんもそうだったと思いますが、深い関わりはありませんし。それで、小松崎さんも話されなかったのではないでしょうか」 「えや、小松崎は違えますな」 「ええ。弘田さんが、自分の会った人を部長も知っている人だ、と言った事実をぼかしたり、小松崎氏の態度から見て、彼の場合は故意に隠したのかもしれません」  勝が口を添えた。「ですから、話してくれませんか? もしその人間が事件に無関係なら、そう迷惑をかけないはずですから」 「分かりましたわ」  笹谷美緒が、心を決めた顔でうなずいた。     8  笹谷美緒の話したのは、土橋滋という、青森市に住む小説家志望の定時制高校教師だった。  年齢は二十九歳で独身。  清新社に送られてきた原稿に関する件で、先月十八日の午後、彼女が函館からの帰りに彼のアパートを訪ねると、小松崎から電話がかかり、「弘田と会わなかったか?」と尋ねてきたのだという。 「それまで、土橋さんが銀嶺書店にも投稿しているとは聞いていませんでしたから、弘田さんや小松崎さんと面識があるなんて、知りませんでした」 「そうですか、作家志望の文学青年ですか」  笹谷美緒の話が終わると、勝が、何か考えているような目をしてつぶやいた。 「はい。それで、ニュースを見て変だなとちょっと感じたときも、知り合いといったほどではないため、小松崎さんは刑事さんたちに土橋さんの存在をお話ししなかったのかもしれない、と思ったんです」 「すかす、笹谷さんがおられるどぎ、小松崎は弘田に会わねがったが、と電話してきたわげですがらな」  五十嵐が言った。 「念のために電話で問い合わせ、会っていないという返事を聞いて、除外したんじゃないでしょうか」 「もづろん、そうだったのがもしれませんが、さっそぐ署さ電話して、土橋に当だっでみるよう手配します」  五十嵐が言うと、勝と一緒に立って、捜査本部の主任官として県警本部から来ている谷山警部と話してきた。  青森からの第一報は、寺本たちがさらにしばらく話しているとき届いた。  土橋は今日から休暇を取って学校を休み、東京へ行っている、というのだった。 「ただ、東京のどごさ泊まっでえるがは、同僚教師の誰も聞いでなえので分がらねえ、つ話です」  五十嵐が報告した。 「東京へ来ているんですか」  勝がつぶやいた。  その言葉に、寺本はなぜともなく、さっき銀嶺書店の応接室で一緒に小松崎の帰りを待っていた男を思い浮かべた。 〈応接室へ入ってきた小松崎の、慌てたような顔……〉  もしかしたら、あの男が土橋ではなかっただろうか。  寺本が、自分の想像を話そうかどうか迷っていると、 「今日上京したといいますと、美緒さんたちに届いた脅迫状が東京中央郵便局で投函された一昨日は、青森にいた、ということでしょうか」  黒江壮が言った。「そうなると、少なくとも、この手紙を出したのは土橋という人ではない可能性が強くなりそうですが」  第四章 甘い殺人     1  東京天文台は都下三鷹市の大沢にある。  明治の初め、本郷に東大理学部付属の観象台として造られたのが元で、麻布に移って東大付属の東京天文台となり、大正十三年、現在の地(当時の三鷹村)に移転した。  地番は三鷹市だが、南に隣接する調布市に食い込んだ台地のような地形の部分なので、駅は中央線の三鷹駅や武蔵境駅より京王線の調布駅のほうが近い。都立神代植物公園や都内唯一の白鳳仏のある深大寺とは、直線にすると千二、三百メートルしか離れていない。  施設の所有地は約三十万平方メートルと広大で、一段低くなった南西の調布飛行場跡地のほうからは、敷地全体が樹木の繁った丘のように見える。  十月三日(土曜日)午前六時二十分——。  その東京天文台の東側を通っている狭いバス通りを、丘の下の大沢橋のほうからバイクで登って行った佐瀬明日男は、バス停「天文台裏」で、左の天文台の敷地にバイクを乗り入れた。 〈関係者以外立入禁止〉の札の立っている、左に大きくカーブした林の間の道である。  どこにも人の姿はなく、ひっそりとしている。好天だが、この秋になって一番冷えこんだ朝だ。  佐瀬は十九歳。新聞配達をしながら大学へ通っているB新聞の奨学生である。  林の奥にある宿舎に新聞を配り、出てくると、灰色をした大きな物体が、右手、木の根元の草の中に見えた。  道のカーブの具合で、入るときは気づかなかったらしい。  誰かが捨てたゴミ袋ででもあろうか。  佐瀬はそう思い、別に気にもとめずに通り過ぎた。  が、気持ちに妙な引っかかりが残った。  視界をよぎった物体の残像のせいかもしれない。  なんとなく人間の体のような感じがあったのだ。  彼はバス道路へ出る直前でバイクを止め、片足をついて振り返った。  しかし、そこからでは、物体はほとんど草に隠れて見えなかった。 「ちっ」  彼は、そんなことにこだわる自分の気持ちに軽く舌打ちしながらバイクを回し、カーブの少し手前まで戻った。  今度もバイクからは降りずに、片足をついて、二十メートルほど林の中に入ったところにある物体を見やった。  やはり人間の体のような感じがする。 〈死んでいるのかな〉  彼は割合に度胸があるほうだったし、朝なので死体でも恐いとは思わなかった。  とはいえ、そばに寄って、確認まではしたくない。そんな面倒は警察がすればいいことで、自分が引き受ける義務はない。  それに、ほんの三、四百メートルしか離れていないすぐ先の十字路に派出所があるのである。  彼はふたたびバイクを回し、今度は一気にバス通りへ走り出た。     2  勝が、三鷹の東京天文台の敷地内で男の変死体が発見されたという連絡を受けたのは、午前六時四十五、六分だった。  都下西多摩の秋川市の自宅で目を覚まし、布団から抜け出そうとしていたときだ。  死体には特にこれといった傷はないが、場所からみて、殺されて捨てられた可能性が濃い、というのが第一報だった。  勝は、警視庁捜査一課殺人班では、真木田警部を長とする四係に属している。  殺人班には八つの係があるが、二係は主として未解決事件を扱う継続捜査班。だから、新しい殺人が起こり、捜査本部が設置されるような場合、他の七つの係が順番に捜査を担当する。そして、勝の四係は、今ちょうど担当する事件のない空《あき》の状態、つまり「在庁」だったのだ。  勝は、顔を洗うと、食事もせずに家を飛び出した。  真木田をはじめとする他の十一人の四係の刑事たちも、本庁の宿直室から、あるいは自宅から三鷹へ向かっているはずである。  パトカーより電車のほうが早そうなので、彼は中央線直通の武蔵五日市線の電車で三鷹の手前の武蔵境まで行き、そこで待っていたパトカーに乗り、現場へ向かった。  天文台裏に着いたのは、七時四十分。  車の運転者たちが、何事かとスピードをゆるめたり停まったりするので、狭い道路は混雑していた。  勝は、入口から少し離れた場所でパトカーを降り、歩いた。  真木田の姿は見えなかったが、昨夜宿直だった同僚の菅原刑事が門のすぐ内側にいるのが目にとまった。  多摩鑑識センターの所員たちも到着したところらしく、鑑識車から器材をおろし、活動を始めようとしていた。  道はそこから八、九十メートル、左に大きく曲がりながら構内に伸びていた。私道とはいえ、幅が四、五メートルある、きれいな舗装道路だ。道の両側は欅、楓、杉、桜などの林で、奥は官舎の生垣の間を通って、研究、観測施設のほうへ通じているらしい。 「チョウさん、ご苦労さまです」  三鷹中央署の刑事たちと何やら話していた菅原が勝に気づき、寄ってきた。  死体のある場所は、三、四十メートル行った左側の木立の中のようだ。五、六人の男たちがかたまっている。すでに監察医が見えているらしい。監察医といっても、多摩には監察医務院の分院はないので、都から委託された医師である。 「その後、新しい事実が分かったかね?」  勝は、現場のほうを見やりながら訊いた。 「監察医の判断では、青酸性の毒物を飲んだらしい、ということです。死亡時刻は昨夕から深夜にかけて……だいたい十時か十一時頃じゃないか、というんですが」 「身元は?」 「はっきりしません。体の下になったズボンの尻ポケットにはまだ触れてないようですが、上衣のポケットには何も入ってなく、カバン、紙袋といった持ち物もなかったんです。ただ、上衣の裏に�小松崎�という縫い取りがあったそうです」 「小松崎?」  勝は目を宙に止め、菅原の言った名をオウム返しにつぶやいた。  昨夜、黒江壮や青森県警の五十嵐たちと話したとき聞いた、銀嶺書店文芸書籍編集部長と同じ名だったからだ。 「何か、心あたりでも?」 「その男は何歳ぐらいかね?」  勝は答えるかわりに、さらに訊いた。 「三十五から四十五ぐらいの間です。グレイのスーツにネクタイをつけた、サラリーマンといった感じのでっぷりした男です」 「とにかく、仏さんを拝ましてもらおう」  勝は言うと、菅原の先に立って、奥へ歩いて行った。  カーブの十メートルほど手前からシートを踏んで木立の中へ入って行くと、顔見知りの三鷹中央署の刑事課長が顔を振り向け、 「殺しだよ」  と、唇をひんまげて伝えた。「どこにも、毒を飲んだ瓶や缶の類いがない。それに、その道の端から遺体を引きずってきたような跡がある」 「では、どこか別の場所で殺され、車で運ばれてきた?」 「確実だね。軽い死体なら車から担ぎ出したんだろうが、六十五、六キロはありそうだから、引きずったんだろう」  死体の周りでは、本格的な鑑識活動が始まっていた。  勝は、その邪魔にならないように注意しながら、草の上に転がった男を見やった。  それは、確かに、誰かに脇の下に腕を入れて引きずってこられた、といった恰好に仰向けに横たわっていた。脚は二本とも伸ばしているものの、腕は左右に無造作に投げ出され、上衣の前ははだけて、左半分がよじれて体の下になっている。  その恰好、様子から見ても、自らの意志でここへ入り込み、自殺したとは思えなかった。自殺者は、何らかのかたちで死後への配慮をする場合が多い。みっともない姿勢をできるだけ避けるとか、靴や持ち物をきちんと揃えておくとか……。それなのに、目の前の死者にはそうした配慮がまったく感じられなかった。投げ捨てられた、不要になった人形さながらだった。  勝が見ている間にも、鑑識課員たちは写真を撮り終わり、死体を裏返して尻のポケットなどを探り始めた。  すでに所轄署の鑑識係員たちが調べたという上衣のポケットには、やはり何も入っていなかったらしい。 「こんなものがありました」  一人の鑑識課員が尻ポケットから指で挟み出したのは、白い封筒を二つに折ったものだった。  広げても、表にも裏にも何も書かれていない。  鑑識課員が中身を取り出した。  勝は緊張した。  その封筒を見たときから、昨日見せられたものと同種ではないかと思っていたところ、案の定《じよう》、同じ薄いワープロ用紙が取り出されたからだ。 「『何一つ新しさのないつまらん本ばかり出している連中に天誅《てんちゆう》を加えた』——そう書かれています」  鑑識課員が言って、ワープロで打たれた文字を勝たちに示した。  それを見て、勝は間違いないと思った。 〈この死者は、銀嶺書店の小松崎だ〉     3  それからおよそ一時間後、死者は勝の想像した通り、銀嶺書店文芸書籍編集部長の小松崎学(三十八歳)と確定した。  青森県警の五十嵐と寺本の泊まっている鶯谷の宿に連絡を取り、駈けつけた彼らによって確認されたのである。  この間、銀嶺書店に電話しても誰も出ず、もしかしたら同業者なので知っているかもしれないと、美緒の自宅に問い合わせても、他社の社員の住所までは聞いていないという。だから、まだ小松崎の家族には連絡が取れなかったし、昨夜の彼の行動、足取りも分からなかった。  ただ、小松崎が弘田を殺した犯人によって殺されたことは、確実に思われた。  真木田とともに、勝は、鑑識車の横で五十嵐たちとその点について話し合った。  毒物が青酸カリと推定される点、被害者がともに別の場所で殺されてから林の中に捨てられたらしい点、と二つの殺人は犯行の手口が酷似《こくじ》していた。しかも、弘田の死後、笹谷美緒や彼女の上司に出された脅迫状と同種の手紙が、小松崎のポケットには残されていたのである。手紙の鑑定はもうしばらく待たなければならないが、同一のワープロで打たれた確率は極めて高かった。 「すると、青森のときは、弘田の指紋を付けたドリンク剤の瓶を死体の傍らに置いたりして、あわよくば自殺に見せようとした。だが、今度はそうした工作をしなかった、というわけですな」  勝と五十嵐の説明を聞いた真木田が、彼独特の腹の底から響いてくるようなバスで言った。  小柄で痩せた勝とは対照的に、身長百八十センチ、体重九十二キロという巨躯である。 「そんだど思えます」  五十嵐が答えた。  真木田を前にして、彼はだいぶ緊張しているようだった。 「弘田の場合も、いずれ小松崎を殺せば、ばれると考えていたのかもしれません。それで、五十嵐さんたちが逸《いち》早く殺人と断定して本格的な捜査を始められたので、自分の意図を暗示するような手紙を笹谷さんたちに送ったのかもしれません」  勝は補足した。 「うーん。ただ、そうすると、犯人はなぜ小松崎には手紙を送らなかったのか……逆に言えば、手紙を受け取らなかった小松崎がなぜ殺されたのか、だが」 「なるほど、そうですね」 「笹谷さんたづに送った手紙は、単なる脅しで、殺す対象は初《はず》めがら小松崎だっだのがもしれません」 「ということは、笹谷さんたちに送られた手紙は、犯人の意図、動機を暗示するというより、逆にそれを分からなくするためだった、ということになりますな」 「もしかしたらそうかもしれませんが、殺すまでの意志はなくても、やはり動機を暗に知らせたかった、という可能性はあると思います」  勝は言った。 「では、二人の死者と手紙を受け取った人間の共通項を探れば、やはり犯人は浮かんでくるかもしれんというわけか」 「ええ。……で、多少気になるのは、現在上京しているらしい土橋という青森の定時制高校の教師です」 「どこに泊まっているのか、分からんわけだな」 「そうなんです」  彼らが話していると、銀嶺書店の社長に連絡が取れた、と部下の刑事が知らせてきた。小松崎の自宅も分かり、彼の妻がおっつけ来るはずだ、という。 「ガイシャは、ここから二キロほどしか離れていない、調布市富士見町というところに住んでいたんです。中央自動車道の調布インターチェンジのそばらしいんですが」  自宅がわずかここから二キロ——。  いったい小松崎はどこで殺されたのか、と思いながら、勝は真木田と顔を見合わせた。  彼はこの近くで殺されたのか。それとも、殺されてから自宅近くのこの天文台まで運ばれたのか。もし、後者だったとしたら、犯人は何のためにそんなことをしたのか。  少なくとも小松崎が昨夜帰宅していない事実は、間もなく判明した。  タクシーで駈けつけた彼の妻が、遺体を確認した後で述べたのだ。  仕事の都合で時々外泊することはあったが、そんなときは必ず連絡してきた、という。それが、昨夜はいくら待っても電話がなく、心配していたのだ、と彼女は涙まじりに話した。  念のために、勝は小松崎のポケットにあった封筒を見せ、一昨日、差出人名の書かれていない似た封書が届かなかったか、と訊いてみた。  届いていない、と彼女は首を横に振った。  さらに三十分ほどすると、今度は銀嶺書店の社長と、筒井という編集部員が引きつった顔をして到着した。  そして、筒井の話により、昨夜の小松崎の行動がだいぶ明らかになったのである。     4 「五十嵐刑事さんたちが帰られたのは六時十五分前頃だったと思いますが、あの後で、ちょっと出てくると言って外出し、戻ってきたのは一時間ぐらいしてからでした」  筒井が話し出した。 「すると、それは七時前?」  勝は確認した。 「そうです」 「我々の帰った後《あど》で出でえっだというのは、あんとぎ一緒に小松崎さんを待ってえだ人に、会えに行ったんじゃありませんが?」  五十嵐が訊いた。 「そうだと思います。外の喫茶店に待たしておいたようですから」 「あん人は、土橋つ人でなえですが?」 「いえ、川島といったと思います」 「土橋でねえ?」 「ええ」  昨夜、勝たちは、それが土橋滋ではなかったか、と推理したのだった。寺本が言い出し、年齢、容姿などが笹谷美緒の言う土橋という男にぴったりだったからだ。しかし、そうではなかったらしい。 「んでは、あの川島つ人は、どういう人ですが?」 「僕もよく知らないんですが、誰かの紹介で原稿を持ち込んできたようです」 「じゃ、昨日、初めで見えだ?」 「五月頃でしたか、二度ほど来たことはあります。ですが、部長と弘田君が会っただけで、他の部員は何も聞いてないんです」 「そうした原稿の持ち込みや投稿に関して、編集部内では話さないんですか?」  勝は不思議な気がして、訊いた。 「そうした件は、編集部長が処理することになっていて、もし、もう一人ぐらい読ませてみようと思ったときだけ、部長がその人間を呼ぶんです」 「すると、川島という人の持ち込み原稿は、弘田さんも読んだ?」 「聞いていませんが、たぶんそうでしょう。……あ、それで、部長ともう一人が読んで、これはいけそうだと判断されれば、編集会議に出されます」 「いけそうだというのは、出版できるかもしれないという意味ですか?」 「そうです」 「では、川島という人の件が編集会議に出なかったということは、弘田さんと小松崎さんが読んで、ダメだと判断した?」 「あるいは、まだ判断を保留していたのかもしれません」 「なるほど」  筒井の説明は分かった。  だが、そうなると、勝はいっそう川島という男に強い引っかかりを覚えた。  土橋とは名が違う。それでいて、小松崎と弘田だけが会っていたその男は、笹谷美緒の言う土橋にそっくりらしい。いったいどういうことか……。 「筒井さんは、小松崎さんや弘田さんは面識があったと思われる、青森に住む土橋という人についてはご存知ないんですか?」  勝は質問を変えた。 「ありません。だいたい、部長と弘田君に青森に知り合いがいたなんて、初耳ですから」 「弘田さんの所在が分からなくなった翌日……先月十八日の午後、小松崎さんはその土橋さんに電話して、弘田さんに会わなかったかどうか尋ねているんです」 「知りませんね。あの翌日の午後でしたら、僕はずっと会社にいたはずですが。もしかしたら、部長は応接室の電話をつかったのかもしれません」 「分かりました。それでは話を戻して、小松崎さんが昨夜、川島という人と会って会社へ帰ってからのことを聞かせてください」 「七時前に戻ってきて、一時間ほど仕事をし、退社したんです。それだけです」 「退社するときは一人でしたか?」 「ええ。僕らはまだ仕事が残っていましたから、お先にと言って帰ったんです」 「そのとき、誰かと待ち合わせているような様子はなかったですか?」 「そういえば、時計を見ながら、食事して帰るような話をしていました。もしかしたら誰かと約束していたのかもしれません」 「食事をした場所の見当はつきませんか?」 「池袋に行きつけの小料理屋がありますが、そこでなかったら分かりません」 「相手が、川島という人だった可能性はどうでしょう?」 「そこまでは……」  勝はさらにいくつかの質問を重ね、最後に池袋の「しの」という店の名を訊いて、筒井を放免した。  勝と真木田は二人の刑事を池袋へ遣り、五十嵐たちと一緒に、三鷹駅前にある三鷹中央署へ引き上げた。  二人の刑事からの報告が入ったのは、捜査本部の設置が決まって一時間ほどした十一時近くである。  彼らは、「しの」の女主人の自宅を調べて訪ね、彼女から聞いた話を次のように知らせてきたのだった。 「小松崎は、昨夜八時半頃、青白い顔をした三十歳前後の男と一緒に見えたそうです。座敷に上がってしまったので、どういう話をしていたのかは分からないそうですが、十時ちょっと前に、やはり一緒に帰ったということです」     5  その日、美緒は十一時四十分頃、休日出勤した。  なんとなく家に落ちついていられず、壮と昼食を一緒にする約束をしたので、それならついでに昨日し残した仕事を片づけてしまおう、と思ったのだ。  朝、勝から、〈小松崎らしい男が三鷹の東京天文台の敷地で殺されていた〉という話を聞き、会社へ出ればもっと詳しい情報が耳に入るかもしれない——そう考えたことも、理由の一つだった。  美緒が文芸部の部屋へ入って行くと、編集長の西村と二人の部員がきていて、何やら話し合っていたらしい顔を振り向けた。  深刻気な表情である。  小松崎の事件は、すでにテレビのニュースで報道されているので、彼らはそれについて話していたのかもしれない。 「笹谷君、きみも今日出てくる予定だったの?」  西村が訊いた。 「いえ、ちょっとついでがあったものですから」 「そう。じゃ、銀嶺書店の小松崎編集部長が殺されたという事件は知ってるかい?」 「はい」 「僕は、テレビで見たという松村君に聞いてびっくりしていたところなんだが」 「私も驚きました」 「僕らの受け取った脅迫状に似たワープロ文字の文書が、ポケットに入っていたそうじゃないか。もし弘田君を殺した犯人と同じ犯人だったとしたら、今度狙われるのは僕かもしれないし、笹谷君かもしれない」 「ええ」 「そう思ったら、ゾッとしてきたが、きみは恐くないのかい?」 「恐いですけど……それより、銀嶺書店のどなたかに訊いて、もっと詳しい事情は分からないんですか?」 「いま電話してみたが、だめだ。警察や報道陣が押しかけてきて、落ちついて僕などと話していられる状態じゃないらしい」  西村がそう言ったとき、電話が鳴り、応対した部員が美緒にだと告げた。  美緒は、立ったまま近くの机に手を伸ばして受話器を取った。 「警視庁の勝ですが、今朝は、早くからすみませんでした」  美緒が名乗るのと同時に勝が言った。 「いえ」  意外な相手に、美緒は怪訝《けげん》に思いながら短く答えた。 「お宅にお電話したところ、出勤されたと伺ったものですから」 「少し前に着いたところなんですけど、その後どうなったんでしょうか?」 「テレビでご覧になったかと思いますが、被害者は小松崎さんだった、とはっきりしました。それで、実は、彼が昨夜会っていた人間が重要になってきたんです」 「ゆうべの五十嵐刑事さんたちのお話では、五十嵐さんたちの帰った後、土橋さんに似た方と喫茶店で待ち合わせていたのではないか、ということでしたけど」 「そうなんです。いえ、それだけでなく、二人は八時過ぎにもう一度会い、一緒に食事をしている事実も明らかになったのです」 「では、土橋さんが小松崎さんを?」 「いや、銀嶺書店の筒井という編集部員によると、その男は土橋ではなく、川島と名乗っていたというんです。それで、もしかしたら、笹谷さんもその川島という男をご存知ないかと思い、お電話したんです」 「川島さん、ですか?」 「年齢も容姿も土橋に似ていて、土橋と同じように、原稿を銀嶺書店に持ち込んだ男だというんですが」 「私の記憶にはありませんわ」 「そうですか」 「でも、ちょっと待ってください。編集長か他の部員が知っているかもしれませんので、訊いてみますから」  勝の落胆したような声を聞き、美緒は慌てて言って、電話機の保留ボタンを押して一旦受話器を置いた。 「土橋に似た川島だって?」  美緒が訊く前に、西村が言った。  美緒の話から、だいたいの内容をつかんでいたらしい。 「ええ。投稿者か原稿を持ち込んできた人のなかに、そんな名前の人はいなかったでしょうか?」 「うーん……いや、待てよ、土橋が最初に送ってきた原稿には、本名・土橋滋と書いた横に、筆名・川島なにがしと書いてあったような気がするが」 「ほんとですか?」  美緒は驚いて訊き返した。 「僕一人が目を通しただけで没にしてしまった原稿のため、はっきりとは覚えていないんだが」  美緒は胸が高鳴り出した。  年齢、容姿から考えても、その可能性があるかもしれない、と思った。  しかし、もし川島と土橋が同一人物だとしたら、彼が小松崎を、そして弘田を殺した犯人なのだろうか。  美緒は、青森の部屋で会った土橋の顔を思い浮かべながら、勝に知らせるために受話器を取った。  手が汗ばんでいた。     6  美緒が勝への電話を終え、西村と他の編集部員に事情を説明しているとき、また電話が鳴った。  今度は、函館の高岡沙也夏から編集長あてにかかってきたのだった。  どうやら、小松崎が殺されたというニュースを聞き、東京ならもっと詳しく分かっているかもしれないと思い、問い合わせてきたものらしい。  西村がしばらく話し、報道されている以上の事情はこっちにも分からないと言って、電話を切った。 「銀嶺書店に電話しても、話し中で通じなかったんだそうだ。といって、取り込んでいる自宅に電話するわけにもいかず、うちに電話してきたようだ」  西村が言った。 「もっとも、何軒かの出版社の番号をプッシュし、たまたまうちが出社していた、ということかもしれんが」  美緒も、たぶんそうだろうと思った。今度、書き下ろしを頼んだとはいえ、清新社は高岡沙也夏と特に懇意とは言えない。一番は、なんといっても、彼女の夫の友人だった小松崎のいた銀嶺書店だが、他にも彼女の本を何点か出している三沢書房や甲陽堂といった出版社があるのである。 「高岡先生もびっくりされたでしょうね。テレビのニュースで知ったのかしら?」  美緒は訊いた。 「NHKの正午のニュースで見た、と言っていた」  西村が答えた。「青森で起きた弘田の事件に関連があるらしいという事情から、全国ニュースに取り上げられたらしい」 「先生は、小松崎さんとは個人的に親しくされていたわけですよね」 「学生時代に熱烈な恋愛の末に結ばれた、亡くなったご主人の親友だそうだから」 「ええ」 「それで、我々はワリを食っていましたが、これで、銀嶺書店も、彼女を一人占めできなくなりましたね」  野田という編集部員が言った。 「おいおい、それじゃ、我々にも小松崎氏を殺す動機があることになってしまうじゃないか。うっかりした話はせんでもらいたいね。もっとも、それで小松崎氏を消さなきゃならんほど、まだ沙也夏女史は売れっこというわけじゃないが」 「で、先生、どうなさるのかしら?」  美緒は、西村のあまり感心しない冗談を無視して、話を元へ戻した。 「うん」  西村も気がとがめたのか、表情から笑いを引っ込め、「これから上京すると言っていた」 「飛行機ですわね。お迎えに行かなくていいかしら」 「かまわんよ。……いや、そうだな、銀嶺書店ではとても迎えに出るどころじゃないだろうし、ここは一つ、点数をかせいでおいたほうが今後のためにいいか。すまんが、笹谷君、行ってくれるかね?」 「何時の飛行機ですか?」  美緒は、壮との食事の約束を考えながら、訊いた。 「函館を二時十五分と四時四十五分に出る便があるそうだから、どっちかには乗れるだろう、と言っていた」  美緒は、時刻表を開いてみた。  東京・函館間はすべて全日空便である。二時十五分の862便は三時三十五分に、四時四十五分の866便は六時五分に羽田に着く予定になっていた。  早くて三時三十五分。それなら、食事をしてから行っても間に合うだろう。場合によっては、あの宇宙人をおともさせてもいいわ。  美緒はそう考えると、 「分かりました、まいります」  と、答えた。     7  勝が、美緒から電話で聞いた話を報告すると、捜査本部の部屋にいた真木田や五十嵐の口から、「オウ」というような小さな声がもれた。  昨夜、五十嵐と寺本が銀嶺書店の応接室で一緒に小松崎を待っていた川島という男こそ、土橋滋だったらしい——。  これは実に単純な事実で、誰の胸にも、もしかしたら……という疑惑があった。だが、それでいて、別々の名を名乗り、その名で通っていた二人の人間が実は一人だった、と断定するハードルを越えることができないでいたのだった。 「じゃ、ガイシャが八時過ぎに会い、池袋の『しの』へ一緒に行った男も、土橋と見てほぼ間違いないな」  真木田が言った。 「そう思います」  勝は答えた。 「動機がえま一つ分がんねすが、犯人も土橋と見で、まづがえありませんね」  五十嵐の顔には、緊張したなかにも明るい色が浮かんでいた。 「となると、あとは、一刻も早く土橋の所在をつかむことだが」  真木田が宙をにらんだ。  土橋がもし青森へ帰れば、青森県警の捜査員たちが彼のアパートの周辺に張り込んでいるので、すぐ任意同行して事情を聞ける。  が、彼が東京にいるかぎり、どこに泊まって何をしているのか、今のところ、突き止める手掛かりがないのだった。 「それじゃ、わだすらは、とにかぐ今晩の夜行で青森さけえってみます」  五十嵐が言った。 「そうですか。青森県警のほうとはあらためて連絡がとられ、合同捜査といったかたちになると思いますが、今後ともよろしく」  真木田が彼に目を戻した。 「いえ、こづらこそ」 「今はとりあえず、土橋の実家に当たり、彼の友人、知人が東京近辺にいないかどうか調べてくれるよう、県警のほうへお願いできませんか」  勝は言った。 「あ、そんですね」 「私らは、土橋の現われる可能性のある出版社や上野駅などを張ってみます」  勝が言ったとき、小松崎の遺体が解剖されているK大学医学部へ行っていた刑事が帰ってきた。  小松崎は殺害された可能性が濃厚だという判断から、大塚の監察医務院には運ばれず、ここ三鷹市内にあるK大学医学部の法医学教室で司法解剖に付されたのである。 「終わったのか?」  真木田が訊いた。 「組織の細かい検査などを除いて、終わりました」  刑事が答えた。 「で?」 「詳しい報告は追って届くはずですが、一つだけ予想外の事実が分かりましたので、できるだけ早くお知らせしておいたほうがいいかと思いまして」 「予想外?」 「毒物は青酸カリらしいと判明したんですが、その嚥下《えんか》の仕方です。ジュースとかコーヒーとかに混入して飲ませられたんではなかったんです」  勝たちは、刑事の顔を注視した。  刑事がつづけた。 「アメです。犯人はキャラメルのようなアメを温めて柔らかくし、青酸カリをくるんで被害者に与えたんじゃないか、というんです。青酸カリの混った、半分溶けかかったアメが胃の中に残っていたんだそうです」 「しかし、それでは、アメが少し溶けるか噛んだとき、被害者が気づき、飲み込む前に吐き出されてしまう危険が大きかったんじゃないかね」 「どうやって飲ませたかは、分からないそうです。ですが、このちょっと変わった殺人方法は、事件捜査に役に立つのではないかと……」  確かに、それは何らかの手掛かりになりそうだった。  だが、そう思って、勝たちはしばらく話し合ったものの、その�甘い殺人�方法が自分たちに何を教えてくれているのか、見当がつかなかった。     8  美緒は、神保町の交差点で一時に壮と待ち合わせ、食事をした。それから、地下鉄都営三田線で芝公園まで行った。  高岡沙也夏が早いほうの862便に乗ったとしても、羽田に着くのは三時三十五分。  まだ時間があったので、増上寺の境内をしばらく散歩し、浜松町駅まで歩いて、モノレールに乗った。  壮も一緒である。  壮はちょっと渋った表情を見せたものの、美緒の頼みなら何でもきく。  沙也夏には、父の部下だと紹介し、空港で偶然会ったから、と言うつもりだった。  ターミナルビル一階の到着ロビーに入ったのは、三時二十五分。  函館からくる862便は、到着十分遅れの標示が出ていた。 「送迎デッキへ出てみない」  美緒は、まだ何となく沙也夏に会うことに抵抗を感じているらしい壮を誘い、二階の出発ロビーを通って送迎デッキへ出た。  羽田空港は時々利用するものの、デッキに出るのは、初めてだった。  秋晴れのよい天気だが、周りに遮《さえぎ》るものがないので風が強い。ジェット機のエンジン音やら何やらの音が、たえずゴンゴンと響いていた。  見学コースを十四、五分歩いている間に二機の飛行機が飛び立つのを見、壮が時計を気にしだしたので、到着ロビーへ戻った。  ちょうど862便が着いたところのようであった。  仕切りの奥に、乗客らしい最初の一団が見えたところで、美緒は壮を観光案内所のそばに残し、改札カウンター近くへ寄った。  この前行った函館のようなローカル空港と違い、ここのロビーはかなりの混雑だったからだ。  手荷物しか持たない者は自動ドアを通ってまっすぐロビーへ出てきたが、荷物を預けた者は、中で待っている。  全員が揃ったらしいにもかかわらず、沙也夏の姿はなかった。  それでも、見おとしているかもしれないので、彼らが全員出てくるまで美緒は待った。 〈次の866便みたいね〉  彼女は口の中でつぶやきながら体をめぐらし、壮の立っているほうへ視線を向けた。  そのときだった。  壮から二メートルと離れていないところに知った顔を見つけた。  こちらを向き、改札カウンターのほうを見ていたらしい男である。  男の目が美緒の目と合った。  一瞬、狼狽したような表情が男の顔に浮かぶ。  相手も美緒に気づいたのだ。 〈彼がどうしてこんなところに……?〉  そう思いながらも、美緒は笑みを向け、近寄って行こうとした。  次の瞬間、男は美緒から目を逸《そ》らし、さっと体をめぐらした。  大きなトランクや紙袋をフロアに置いた団体客が、ちょうど美緒の前を塞《ふさ》いでいた。  それを避けて、美緒が男の立っていたところまで行ったときには、男はロビーの外に消えていた。  美緒もロビーを出て、渡り廊下のような通路を通り、各社の搭乗手続きカウンターの並んでいる前まで走った。が、左右を見やっても、人混みに紛《まぎ》れてしまったのか、男の姿は見えなかった。 「どうしたんですか?」  壮が追いかけてきて、怪訝そうな顔をして訊いた。 「いま、あなたの左に立っていた男の人の顔を見た?」 「ちょっとだけでしたら」 「あれが、ゆうべ勝刑事さんたちとのお話に出た、そしてさっきもお話しした、土橋滋さんだったの」  美緒は、土橋はいったい到着ロビーに誰を迎えにきていたのだろうか、と思いながら言った。  第五章 屈折した怒り     1 『東京天文台敷地内殺人死体遺棄事件捜査本部』の第一回捜査会議は、三日(土曜日)の夜七時から、本部の設置された三鷹中央署五階の大会議室で開かれた。  捜査の事実上の指揮を取る主任官は真木田警部だが、本部長は本庁刑事部長、副本部長は本庁捜査一課長と三鷹中央署の署長である。  会議は真木田の司会で進められ、正副本部長の挨拶の後、死体発見の模様、解剖結果、鑑識結果、捜査状況などが、所轄署の刑事課長、多摩鑑識センター所長、そして真木田らから報告された。  それによると、これまでに判明した事実、あるいは推定された事柄は、次のような諸点であった。  ◎ 被害者は、調布市に住む銀嶺書店文芸書籍編集部長、小松崎学、三十八歳。  ◎ 死因は、キャラメル様のアメの中に仕込まれた青酸カリを嚥下《えんか》したことによる青酸中毒。  ◎ 死亡推定時刻は、昨夜(十月二日)午後十時から十二時の間。  ◎ 死体のズボンの尻ポケットには、白い市販の封筒に入れられた、犯人の犯行宣言と思われる、〈何一つ新しさのないつまらん本ばかり出している連中に天誅を加えた〉という、ワープロ文字の一文があった。  ◎ 他に被害者の所持品はなく、通勤用定期乗車券、財布、名刺入れ等は、死体運搬中に落ちたか、犯人が抜き取ったものと思われる。  ◎ 死体のあったのは、三鷹市大沢の東京天文台裏門から三、四十メートル構内へ入った林の中。死体は、三日午前六時二十分頃、新聞配達の大学生によって発見された。  ◎ 天文台の敷地はコンクリート塀で囲まれ、さらにその内側には蔓草などが茂っているため、死体のあった場所は道路を通る車や歩行者からは見えない。道路の反対側は栗林。道路から見て門の右隣りに学寮の古い建物があるが、不審な車か人が裏門近くにいた、という目撃者は見つかっていない。  ◎ 犯行現場は、死体の発見された天文台ではなく、別の場所で殺されてから運ばれ、捨てられた可能性が濃厚である。私道の端から、死体のあった林の中まで、三十メートルほど死体を引きずったと見られる跡が認められた。  ◎ 東京天文台と被害者の自宅は、直線距離にして二キロたらずしか離れていないが、この事実が具体的に何を意味しているのかは不明である。被害者は犯人と一緒に自宅近くまで来て殺されたのか。一人で帰ってきたところを、待ちうけた犯人によって殺されたのか。それとも、まったく別のところで殺され、犯人の何らかの意図により、天文台敷地まで運ばれ捨てられたのか——。  ただ、少なくとも、犯人は死体を遺棄する場所として天文台を下見しておいたか、その周辺に土地鑑があったと思われる。  ◎ 被害者の昨夜の行動は、八時頃に退社して、八時半頃三十歳前後の男と一緒に池袋の小料理屋「しの」へ行き、二人で銚子五本を飲み、食事をしている。一緒に「しの」を出たのは十時近く。その後の行動、所在は不明。  なお、青森県警から土橋滋の写真を電送してもらった結果、昨夕銀嶺書店を訪ね、五十嵐たちと小松崎の帰りを待っていた川島と名乗った男、さらに、本郷三丁目の喫茶店「ミロ」で六時頃から七時頃まで小松崎と一緒にいた男、八時半過ぎに彼と「しの」で食事をした男——これらは、いずれも土橋であったと確認された。  ◎ 土橋は、先月十八日、青森の夏泊半島で死体となって発見された弘田辰夫とも面識があり、二つの事件は密接な関わりがあるものと考えられる。  ◎ 弘田の場合も、青酸カリを飲んで死亡している点、殺されてから捨てられたらしい点、と小松崎の場合と犯行の手口が類似している。  ◎ 青森県警の調べにより、土橋の勤める高校の理科室には実験用の青酸カリがあり、教師ならその盗み出しは容易《たやす》いという事実が判明した。しかも、瓶から一部盗み出すだけなら、内容量をきちんと計ってあるわけではないため、誰にも気づかれない。現に中身が前より減っているかどうか、理科主任さえ分からなかった、という。ちなみに、青酸カリの致死量は○・一五〜○・三グラムと、微量である。  ◎ 弘田が死亡した先月十七日、土橋は青森にいたし、車を所持しているので、弘田を殺害して夏泊半島まで死体を運ぶことは可能だった。  ◎ 小松崎のポケットに残されていた一文は、一昨日(十月一日)、清新社の笹谷美緒ら三人の編集者に届いた手紙と、封筒、ワープロ用紙、文字が一致した。  手紙の送り主はその中で、〈いつまでも、何一つ新しさのないつまらん小説ばかり出していると、貴様もいずれ銀嶺書店の弘田のようになるからな〉と書いている。  また、小松崎のポケットから出てきた一文には、〈……連中に天誅を加えた〉と書かれており、犯人は、すでに複数の人間を殺した事実を暗示している。  ◎ 以上の諸事実から、�弘田を殺した犯人��小松崎を殺した犯人��笹谷美緒たちに脅迫状を送った犯人�は同一人である可能性が高く、それは土橋滋である疑いがある。  ◎ 笹谷美緒たちに送られた脅迫状は、九月三十日(水曜日)の十二時から十八時の間に東京中央郵便局から出されている。ところが、土橋はその日午後四時(十六時)にR高校に出勤しており、彼が自分で手紙を投函するのは不可能。東京を午後に発って四時までに青森へ行ける飛行便はないからだ。だから、彼が犯人なら、手紙は誰かに投函してもらったと考えられる。  ◎ 土橋が犯人であるにせよないにせよ、彼は昨夜十時まで小松崎と行動をともにしていた人間であるため、事件の重要参考人として捜している。     2  翌四日(日曜日)になり、土橋に関してさらに重要な事実が判明し、勝たちは、彼に対する疑いをいっそう強めた。  S書房の出版部長と、N出版の新書判ノベルズ編集長にも、三日前、笹谷美緒たちに送られた脅迫状と同じ手紙が送られていた事実が明らかになったのだ。  といって、それだけなら、犯人が土橋かどうか分からない。ところが、彼ら二人はいずれも土橋の送った原稿を没にするか無視した過去があったのである。  また、青森県警の調べにより、土橋が弘田と小松崎を殺した犯行の動機らしきものも明らかになってきた。  自分の原稿が採用されなかったための、逆恨《さかうら》みである。  土橋は偏屈で偏狭で、学生時代からほとんど友人らしい友人がなく、現在の職場でも孤立していたらしい。  多少とも彼と付き合いのあった人たちの話を総合すると、彼はプロの作家になって東京へ出て行くことを夢見、これまで何度も小説新人賞に応募したり、出版社に原稿を送ったりしていた、という。  ところが、そのことごとくが落選、または没にされ、最近は、  ——選者の作家や評論家、編集者などは俺の小説の良さや新しさの分からない能無しばかりさ。その証拠が、奴らの書き、褒《ほ》め、出版されるくだらない小説の山だ。  そう、罵《ののし》っていた。  特に、銀嶺書店には強い恨みがあったらしく、二、三ヵ月前、彼と一緒に酒を飲んだ大学時代の知人によると、  ——あそこの編集者野郎には、今に、目に物見せてやる。  と、飲むほどに青くなる顔のなかで酔眼をギラつかせ、もらしたという。  勝の頭には、そうした恨みぐらいで二人も人間を殺すだろうか、という疑問がないわけではない。  だが、今年だけでも、犯人の被害妄想から起きた救いのない殺人事件が何件かある。新しいところでは、自分の不法な行為を咎《とが》められた一人暮らしの男が隣家の家族を皆殺しにして火を点け、自分も自殺した事件であり、もう一件は、他人が自分に危害を加えようとしていると思い込んだ男が、やはり近所の主婦を刺殺した事件だ。  殺人を犯すような人間は、どこかの部分で狂っている。あるいは、正常な判断力を狂わせてしまった状態でしか、人の命を奪うといった行為に出られない、と勝は考えている。  だから、殺人の動機といったものに、一般性、普遍性はない。Aにとっては一晩眠れば忘れられることでも、Bにとっては生涯忘れられない出来事や他人の言葉といったものがある。つまり、勝たちが〈それぐらいでなぜ人殺しなどしたのか〉と思うような動機で、人は他人のかけがえのない命を奪っている場合が少なくない。  そう考えると、勝も、やはり土橋が自分の小説が受け容《い》れられない恨みから弘田と小松崎を殺した可能性が強いかもしれない、と思うのだった。  こうして土橋に対する疑いは強まった。  だが、今日一日、三十人を越す捜査員たちが土橋の写真を持って、彼の立ち回りそうな場所を聞き込んで歩いたにもかかわらず、彼の所在はつかめなかった。  朝早く青森に帰り着いた五十嵐と寺本からも、二度電話がかかってきた。  しかし、いずれも、土橋が青森へ帰った形跡はない、という報告であった。     3  寺本たちが青森へ帰って一夜明け、五日(月曜日)になった。  土橋はまだ帰宅しない。  東京での所在も分からなかった。  警察が疑い出したのを察知し、別の地へ逃亡した可能性もないではない。  寺本たちは、それをおそれながらも、一方で、土橋が金曜日と土曜日しか休暇届けを出していない、という事実に望みをつないでいた。  たとえ警察が疑いの目を向けていると薄々感付いたとしても、自らを窮地に追い込む逃亡といった手段は採らないかもしれない。とすれば、彼の勤めは夜なので、今日の夕方までに帰ってくるのではないか——。  寺本たち青森県警も、勝たち警視庁も、今や、弘田と小松崎を殺したのは土橋と見て九割がた間違いない、と考えていた。いずれの事件においても最も�犯行�に近い場所にいた事実に加え、二人を殺す動機も明らかになりつつあったからだ。  とはいえ、彼を犯人と決めつける証拠は今のところ何もなかった。すべては状況証拠にすぎない。  土橋が小松崎を殺して捨てたのなら、車を利用したことは確実である。そう考えて、勝たちは東京と東京周辺のレンタカー会社を総当たりしているものの、土橋が車を借りた形跡をつかめないでいた。  土橋自身のアウディは、彼のアパートの駐車場に駐められている。それで、勝たちの捜査の網に引っかからないとなると、残る可能性は、首都圏以外のレンタカー会社で借りて東京へ乗って行ったか、知人に借りたか、盗んだか……のいずれかしかない。  しかし、そうなると——特に盗んだ場合、証拠をつかむのはほとんど不可能にちかくなる。  また、彼が犯人なら、青森にいた先月三十日の午後、誰かに脅迫状を東京で投函《とうかん》させなければならなかったはずである。それなのに、共犯者、協力者らしい者は、どこからも浮かんでこなかった。  こうした事情からも、寺本たちは土橋をつかまえ、話を聞く必要があった。彼を追及して犯行を自白させないかぎり、証拠を見つけ、固めるのが難しいからだ。  今日、土橋が帰ってくるかもしれないという寺本たちの期待は、午後二時半過ぎになって、的中したことが判明した。  青森空港を張っていた刑事の一人から、いま東京から着いた東亜国内航空の213便で土橋と思われる男が降りた、という連絡が東署の本部に入ったのだ。 「それじゃ、気づかれないように、どこへ行くかしばらく尾けてみてくれ」  通話の途中で一度受話器を耳から離し、谷山警部に相談したデスクの遠藤警部補が、電話に戻って言った。  青森へ帰ったという事実から、このまま逃亡するおそれは少ない。そう谷山が判断し、しばらく様子を見てみよう、ということになったのである。 「えよえよ、やづに会えるが」  寺本と一緒にそばで話を聞いていた五十嵐が、緊張した顔でつぶやいた。  二人は、盛岡に住む土橋の高校時代の担任教師に会い、十分ほど前に帰ったばかりだった。 「たぶんアパートへ帰ってくると思うので、すぐですまんが、五十嵐《イガ》さん、行ってくれるか」  谷山が言った。  彼と五十嵐は、これまでも何度か一緒に仕事をした仲らしい。 「もづろんです」  五十嵐が答え、寺本も、おろして間もない腰を上げた。  遅い昼食に、ラーメンの出前を頼もうとしていたのだが、そんなことは言っていられない。  青森空港は、市の中心から南へ十キロほど離れたところにある。だから、土橋がバスを乗り継いで帰れば、一時間はかかる。だが、タクシーを利用した場合、ここ浅虫からパトカーを飛ばして彼のアパートへ行くのと、変わらないのだ。  寺本たちは階段を駈け降り、黒い覆面パトカーに乗った。  運転の警官が回転灯を屋根に載せ、サイレンを鳴らしながら国道へ出た。  しばらく走ったところで、本部から無線連絡が入った。土橋と思われる男は、青森駅前を通って観光物産館前のバスターミナルまで行く連絡バスに乗った——という。  棟方志功記念館に近い、建築資材置場に着いたのは、署を出てから二十二、三分後。  寺本たちがパトカーから降り立つと、塀の陰から土橋のアパートを見張っていた二人の刑事が寄ってきて、 「まだ帰っていません」  と、報告した。  彼らも、土橋らしい男が飛行機を降りたことは、連絡を受けていたのである。  無線の第二報は、それから三十分ほどして入った。  土橋らしい男は駅前で連絡バスを降り、こちらへ向かう市営バスに乗り換えた、というのだった。 「奴に間違いありませんね」  寺本は、下腹のあたりがむずむずするような緊張を覚えながら、言った。  五十嵐がうなずいた。  寺本と五十嵐は、土橋とは知らなかったものの、彼と一緒に二十分ほど銀嶺書店の応接室に座っていた。だから、一目見れば、はっきりする。  長い十分間だった。 「来ました。あれじゃないでしょうか」  刑事の一人が、通りの向こうからボストンバッグを提げて歩いてくる男に目を向けて、言った。  寺本と五十嵐は同時に男を見やり、次いで顔を見交わしてうなずき合った。  間違いなかったのだ。     4  寺本と五十嵐は、男のあとからさりげなくアパートへ近づいて行った。  男が前庭を通って一つの部屋に近づき、鍵を開《あ》けて中へ入るのを見届けてから、そのドアに寄り、チャイムを鳴らした。  ドアはすぐに開かれ、ボストンバッグを置いただけの男が目の前に立った。 「土橋滋さんですな」  五十嵐が問うと、男は怪訝そうな顔をしてうなずき、次の瞬間、瞳のなかに驚きの表情が浮かんだ。  寺本たちの顔を思い出したらしい。 「青森県警の五十嵐、寺本どええますが、銀嶺書店でお会えしましたね」  男が黙ってうなずいた。  青白い、神経質そうな顔だ。  三日前のときもそうだったが、決して寺本たちの目を直視しない。それでいて、チラチラとこちらの表情を窺《うかが》っている。 「えま、東京がらおがえりですが?」 「ええ」 「東京さはどうえっだ用事で行《え》がれだんですが?」 「別にこれといった用事があったわけじゃなく、半分は遊びです。それより、刑事さんが、何か僕に?」  土橋が、わけが分からないといった顔をした。 「ほう、見当がつぎませんが。東京で新聞ぐらいは見られだでしょう、銀嶺書店の小松崎さんが殺されだんですよ」 「それなら知っています」 「それに関して、土橋さんにお話をうががえたえんです。ご足労ですが、これから署までご同行願えませんが」 「ぼ、僕がですか?」  土橋の頬のあたりが引きつった。「いったい、どうして僕が警察まで行かなければならないんです?」 「参考までに、お聞ぎしだいごどがあるんです」 「それなら、ここでいいでしょう。僕は、定時制高校の教師をしていますから、これから授業の準備をしなければならないんです」 「どうしても、ご同行願えませんが」 「断わる」  土橋が断固とした調子で言った。その唇は震え、ただでさえ青い顔は、紙のように白くなっていた。 「ご同行願えねとなると、厄介《やつかい》なごどになるがもしれませんが」 「僕を脅《おど》すんですか? 僕はそんな脅しなど恐くない。逮捕状もないのに、僕にはあなたがたの言う通りになる義務はないはずだ」 「分がりました」  仕方なく、五十嵐が退《ひ》いた。  今のところ、寺本たちには、たしかに土橋を強制的に連行する権限はないからだ。 「そのかわり、中さ入《え》れでもらえませんが」 「…………」  土橋が無言でスリッパを出し、食卓を兼ねているらしい小さなリビングテーブルに座るよう、二人を促した。  広くはないが、男一人の生活にしては、こざっぱりと片づけられていた。  これも、土橋という男の性格なのかもしれない。 「僕に聞きたいというのは、どういうことですか?」  彼も前に腰をおろし、言った。  相変わらず、目は微妙に寺本たちから逸らされている。 「土橋さんは、小松崎さんが殺されだと知りながら、どうして彼の自宅なり銀嶺書店へ、お悔《くや》みに行がれながったんですが?」  五十嵐が土橋の顔にひたと視線を当てて、訊《き》いた。 「僕は、小松崎さんとはそうした間柄じゃありませんから」 「すかす、あんだは、川島どゆう名で自分の書えだ小説を持ち込み、小松崎さんや弘田さん——先月十七日、青森で殺されで夏泊半島の茂浦さ捨でられでえだのはご存知でしょう——この二人に読んでもらっでえだんじゃありませんが?」 「読んでもらいましたよ。でも、それだけです。出版してもらったわけではなし、恩義はありません」 「小松崎さんが亡ぐなっだ夜、銀嶺書店を訪ねで行っだのは、どういう用件だったんですが?」 「東京へ行ったついでに、ちょっと挨拶に顔を出しただけです」 「我々のあどで、小松崎さんと会っでますね」 「喫茶店で一時間ぐらい話をしましたか」 「それだけですが?」 「そうですよ」 「彼はあの晩十時過ぎに殺されだわげだが、会ってねえ?」 「当然ですよ。そんなに何度も会うわけがないでしょう」  土橋が、唇に作ったような笑いをにじませた。  どうやら、「しの」の食事の件を警察はつかんでいない、と思っているらしい。  五十嵐の表情に、彼をよく知っている者でなければ気づかないようなかすかな笑みが浮かんだ。 「ほう」  五十嵐の笑みは顔全体に広がった。  反対に、土橋の唇から笑いが消えた。  目の中で、不安そうに翳《かげ》が揺れる。 「ほう」  五十嵐が、土橋の不安をかきたてるように同じ言葉をもらした。  こうしたとき、相手の様子を見ながら出方を待つのが、五十嵐が時々採る戦術なのである。 「な、なにが言いたいんです?」  その五十嵐の読みの通り、土橋が堪《こら》えきれなくなって、言った。 「あんだは、本当に、喫茶店で別れでがら、小松崎さんに会っでえねんですな?」  土橋を睨《ね》めつけた。 「もちろんだ。小松崎さんは、仕事が残っているからと言って、僕と別れてからまた会社へ戻った」 「そのあどだよ。あんだが八時過ぎにもう一度彼に会い、池袋の�しの�という小料理屋さ行っでるのは、分がっでるんだ」 「…………」 「そすて、十時頃まで二人で酒を飲み、飯《めす》を食った」 「…………」  土橋の顔はふたたび最初のときのように蒼白に変わり、肘掛けに置いた右手が小刻《こきざ》みに震え出していた。  頭の中で、彼は懸命に言いのがれの方法を捜しているにちがいない。  寺本はそう思った。 「そんだな」 「ああ」  五十嵐の追及に、土橋が腹を据えたのか、心持ち胸を張るようにして答えた。     5  その後、土橋は、二日の夜八時十五分に地下鉄本郷三丁目で小松崎と待ち合わせ、池袋の「しの」へ行った事実を認めた。  この約束は、喫茶店で会ったときにしたもので、小松崎のほうから「仕事を片づけてくるから、その後で食事をしよう」と誘ったのだという。  池袋へ行ったのは八時半頃で、十時前には「しの」を出た。そして、駅まで歩き、調布の自宅へ帰るという小松崎と構内で別れ、夕方銀嶺書店へ行く前にチェックインしておいた御茶ノ水のHホテルへ引き上げた。  ホテルへ帰ったのは十時半頃で、その後は部屋から一歩も出ていない。  小松崎が殺されたと知ったのは、翌日の昼のニュース。びっくりしたものの、関わり合いになったら面倒だと思い、一緒に「しの」へ行った事実は誰にも話さないことにし、銀嶺書店にも顔を出さなかった。  今も、警察がそこまで調べているとは想像しなかったため、巻き込まれたら厄介だという同じ理由から、隠しただけである。自分は池袋で小松崎と別れているのだから、彼の殺された事件とは関係がないし、犯人についても心あたりがない。だいたい、調布とか三鷹とか聞いても自分は行ったことがなく、東京天文台の場所も知らない——。  土橋はこう主張し、五十嵐がどんなに厳しく追及しても、彼を突き崩せなかった。  寺本は、土橋の主張にも一応の筋が通っている点は認めざるをえなかった。といって、彼に対する疑いを弱めたわけではない。  土橋の顔は、事件に無関係な人間が隠していたすべてを吐き出し、すっきりしたという晴れやかな色ではない。腹を据え、居直りながらも、常に五十嵐と寺本の表情を窺うような、おどおどした目をしていた。  土橋は東京天文台など知らないというが、それぐらい、前もって調べておくのは簡単であろう。  また、十時半に御茶ノ水のHホテルへ帰ったといっても、部屋へ入ってからは誰とも顔を合わせていないし、電話でも話していない、と言ったのである。  とすれば、たとえ十時半にホテルへ帰ったのが確認されたとしても、その後、非常口からそっと抜け出し、何らかの口実を設けてどこかに待たせてあった小松崎と三たび会うことも可能だったのだ。  それだけではない。  五十嵐と土橋のやり取りを聞きながら、寺本は、�小松崎と土橋が一緒に食事をした�という事実に新たなこだわりを覚え始めていた。  土橋によると、「折角東京へ出てきたのだから……」そう言って、小松崎のほうから誘ったという。  考えてみると、それはかなり不自然であった。土橋は、単なる投稿者にすぎないのである。小松崎が頼んで原稿を書いてもらっている作家ではない。しかも、その人間のために、すでに一時間もつぶして喫茶店で会っているのだ。それなのに、さらに——それも会社へ一度帰って仕事を片づけ、再度待ち合わせてまで——食事に誘うだろうか。  いや、食事に誘ったのは、土橋の言う通り小松崎だったかもしれない。だが、理由が違うのではないか。二人の間には、単なる編集者と投稿者という関係以上の�何か�があったのではないか。  そう考えると、弘田の殺された後、小松崎が土橋に問い合わせの電話をかけていながら、警察に土橋の存在を明かさなかった点も説明できるような気がする。  二人——弘田を含めると三人——は、初めはたしかに編集者と投稿者の関係だった、と思われる。土橋の投稿あるいは原稿持ち込みによって始まった関わり合いだったのだろう。しかし、その三人の関わり合いに、後から�何か�が生じた、あるいは入ってきた。その�何か�の故にまず弘田が殺され、小松崎が土橋の名を警察に隠し、そして、彼も殺されてしまったのではないか——。  これは、まだ寺本の想像にすぎない。�何か�という肝腎な点も、見当がつかない。  だが、彼は、自分の推理が当たっているような気がした。  最後に五十嵐が、ワープロの有無を質し、それとなく脅迫状に触れて土橋の反応を観察した。  しかし、彼は、ワープロは持っていないと答え、脅迫状についてはまるで知らない、といった顔をした。  尋問が済むと、寺本たちは鑑識係を呼び、土橋の許可を得て、彼の車の座席や床、トランクなどを検査し、指紋、髪の毛などを採取した。  谷山から警視庁の勝たちに連絡してもらい、御茶ノ水のHホテルに当たってくれるよう依頼したことは、言うまでもない。     6  勝からの報告はその日の夜に届き、土橋の車から採取した指紋、毛髪等に関する鑑識結果は翌六日に判明した。  Hホテルに当たった結果は、二日の夜土橋が何時に帰ったかという点も含めて、彼の行動、所在はいっさい確認できなかった、というものだった。  鑑識の結果も、採取したなかに弘田の指紋はなく、血液型、形状が彼のものと一致する毛髪は見つからなかった。  その後数日、寺本たちは、青森駅から土橋のアパートの周辺、夏泊半島の茂浦周辺の聞き込みを重ねた。これまでの弘田の写真に、土橋の写真と彼の車の写真を加えて持ち、なんとかして二人の接触の事実を突き止めようとしたのである。  同時に、土橋の尋問を繰り返し、彼が小松崎に怪しまれずに青酸カリ入りのアメを飲み込ませた方法、青森にいながら東京で手紙を投函する方法、の解明にも取り組んだ。  警視庁は、土橋が小松崎の死体運搬に使った車の発見に、依然、最大の力を注いでいるようだった。  それが見つかれば、彼の犯行を裏づける有力な証拠になるからであろう。  だが、その成果を上げられないまま、勝と白畑という若い刑事が、一度青森まで来た。  彼らは、笹谷美緒から得たという一つの情報をもたらした。それによると、土橋がおもに書いている小説はミステリーで、特にトリックを重視する本格派だという。 「小説作りはまだ稚拙《ちせつ》だそうですが、トリックにだけは捨てがたいものがあり、なかなかのトリックメーカーだという話です」  勝のこの話は、寺本たちに土橋への疑いをいっそう強めさせた。  脅迫状の投函、小松崎のアメの嚥下《えんか》と、ともに土橋の弄《ろう》した何らかのトリックにちがいない、と思ったのだ。  勝たちは青森に二日間滞在し、寺本や五十嵐とともに土橋から事情を聴取し、茂浦の弘田の死体発見現場にも行った。  しかし、これといった「土産」を手にすることなく、東京へ帰った。  寺本たちの青森、勝たちの東京——ともに、捜査は膠着《こうちやく》状態となり、寺本は犯人を目の前にしながら、歯噛みして日を送った。     7  美緒が一時間ほど残業をし、そろそろ帰ろうかと思っていた七時過ぎ、菅谷いずみが文芸部の部屋へ入ってきた。  西村たち数人が残っていたが、ちょうど食事に出て、部屋にいるのは美緒一人だけだった。  十月も今日は二十日である。  弘田の死から一ヵ月以上、小松崎が殺されてから半月以上が経っていた。  勝や五十嵐たち警察は、土橋を疑っているらしかったが、彼を犯人と決めつける証拠をつかめないでいるらしい。  この間、美緒は、彼らの事件捜査とともに脅迫状の件がいつも気にかかっていたが、別にこれといった危害もうけず、無事にすごしてきた。 「まだやるの?」  いずみが、美緒の机の前に立って言った。 「ううん、帰ろうかと思っていたとこ」  美緒は割り付けをしていたボールペンを置いて、答えた。 「じゃ、たまには一緒に夕御飯でもどーお?」 「そうね、いずみとは、このところゆっくりお話ししてないわね」  いずみは、美緒と同期の入社だった。ずっと同じ文芸部にいたのだが、この三月、エンターテイメント誌「小説ルビー」が創刊され、その編集部へ移ったのである。 「そうよ、外へ出たと思って、お美緒、冷たいんだから」 「あら、いずみこそ、口を開けば忙しい忙しいって言ってたから、私、遠慮していたんじゃない」 「そうだったかしら? でも、それじゃ、決まりね。実は、お美緒に読ませたい原稿があるんだ」 「なーに? 誰の原稿?」 「それは、後のお楽しみ。支度して降りて行くから、玄関で待っていて」  いずみは言うと、丸い背を向け、部屋を出て行った。  身長は美緒と同じ百五十四、五センチ。ただし、六十五キロと肥っている。食事制限していると言って、昼食などウサギの餌のようなものしか食べないが、それでいて、しょっちゅうお菓子をつまんでいるから、逆効果なのだ。  美緒は机の上を片付け、更衣室で化粧をちょっとなおして下へ降りた。  窓口を女子の受付係から引き継いだ守衛と二、三分立ち話をしていると、いずみがエレベーターから吐き出されてきた。 「どこへ行く?」  美緒は訊いた。 「思いきりお寿司を食べたいんだけど、スパゲティーで我慢するわ。『ポー』でどーお?」 「お寿司でもスパゲティーでも同じだと思うけど、いいわよ」  ポーというのは、イタリアの川の名をつけた、結構美味しいスパゲティーを食べさせる店だった。 「二人前ずつですかね」  美緒たちは守衛のひやかしの言葉を背に、ビルを出て歩き出した。 「さっきの原稿って、誰の?」  美緒は気になって訊いた。 「お美緒も、第一回小説ルビー新人賞の応募締切りが七月末だったこと、知ってるでしょう?」  いずみが、答えるかわりに言った。 「じゃ、ひょっとして、その応募原稿? おもしろい作品でもあったの?」  夏以来、いずみたちがその応募原稿の下読みに追われているのを、美緒も知っていた。  短篇小説を対象にした新人賞では賞金が三百万円と破格だし、第一回ということで大々的に宣伝したため、千篇を越える応募があったのだった。 「まあ、読ませるわね。もっとも、一度もう篩《ふるい》にかけて、百篇ほどのなかに残った一篇だけど」 「候補作にでもなりそうなの?」 「なるかもしれないけど……でも、それで、お美緒に読ませようと思ったわけじゃないのよ。問題は、書いてある内容と作者なの」 「作者って……」 「うん」  いずみが美緒の言葉を途中で引きとり、答えかけたとき、白山通りへ出た。  信号が青に変わったところだったので、二人は急いで交差点まで行き、通りを渡った。  ポーは、ここから九段のほうへ行ったところにあるのだ。 「お美緒、川島秀一っていう名前、知らない?」  いずみがつづきを言った。 「川島秀一」  美緒はつぶやき、自分の口にした川島という姓に、ハッとした。 「いずみ」  彼女は足を止め、同僚のにきびの吹き出た顔を見つめた。 「それ、ひょっとして土橋滋のペンネーム?」 「ご名答」  いずみがにこっと笑った。  本人は好きじゃないらしいが、丸くて可愛い顔だ。 「そう。土橋さん、小説ルビーの新人賞にも応募していたの。一度、川島という名でうちのほうにも原稿を送ってきたらしいんだけど」  二人はふたたび歩き出した。 「読みたい?」  いずみが、じらすように美緒の顔を覗き込んだ。 「もちよ」 「お美緒に、銀嶺書店の弘田さんたちの殺された事件のこと詳しく聞いていたでしょう。それに、お美緒が青森の土橋さんを訪ねて同じトリックを生かして別の作品を書いてみないか、と勧めた話など……。だから、応募者名簿の本名の欄に�土橋�とあるのを見たときは、びっくりしちゃったわ。もっとも、早々と六月中に送られてきた原稿らしいから、三ヵ月後にお美緒の訪問を受けるなんて予想もしてなかったんでしょうけど」 「ねえ、どんな内容なの?」 「読めば分かるわ」 「いずみは、土橋さんの原稿だと分かって読んだわけ?」 「そうじゃないわ。誰かが最初に読んで一次予選を通過させ、偶然、私のところへ回してきた原稿の一つ……。原稿には本名が書いてないから、私も初めは土橋という人の作品だなんて知らないで読んだの。それが、かなりおもしろいし、内容がちょっと変わっていたので、気になり、応募者の経歴を知りたくなって、原稿とは別に整理してある応募者名簿を見てみたっていうわけ」  話しているうちに、二人はポーに着いた。  あまり広くない店内は、大学生らしい若い男女でいっぱいだった。近くに、専修大学があるのである。 「どうする?」  美緒は中を覗いて、いずみに問いかけた。  彼女としては、食事よりも土橋の原稿のほうが気になっていた。一刻も早く読みたかった。 「この分じゃ、相当待たされるわね」  いずみが顔をしかめた。 「私、おごるから、喫茶店のスパゲティーで我慢しない?」 「さては——」 「そう、早く読みたいの。いずみがじらすから」 「分かった、いいわ。そのかわり、三人前ぐらい食べてやるから」  いずみが、笑いながら言った。     8  神保町の交差点近くまで戻って喫茶店へ入ると、美緒はサンドイッチとコーヒーを注文し、さっそく土橋の原稿を読み始めた。  もしかしたらワープロで書かれた原稿ではないかと思っていたのだが、それは、美緒がこの前読んで改稿を勧めたのと同じ、八十六枚の手書きの原稿だった。  美緒は、いずみがスパゲティーを食べている間も、読みつづけた。サンドイッチなら読みながらでもつまめると思って注文したのだが、手をつけなかった。細かい部分を見れば難点はあったが、その小説『「完全犯罪」殺人事件』は、美緒に食事を忘れさせるぐらい迫力があったし、おもしろかった。 『「完全犯罪」殺人事件』とは、妙な題だなと思ったが、読むと、その題の意味が分かった。  とはいっても、美緒を引きつけて放さなかった最大の要因は、その内容や題ではなかった。その�内容�を土橋が書いた、という事実であった。いずみの言ったように、作者名など知らなくても、読ませる力は持っているし、これまであまり書かれたことのない題材である。が、美緒の場合、土橋の作品だという事実がなかったら、食事を忘れるほど引き込まれはしなかっただろう。  それは、一人の作家志望の男の視点から、その男の完全犯罪を描いたものだった。  ——男、室田泰雄は、自分が苦労して書いた小説「完全犯罪」をY出版のKという編集長に送った。本格ミステリーである。室田は自信があった。少なくとも、そのなかで使用したメイントリックは江戸川乱歩の「類別トリック集成」にも入っていない、まったく新しい彼の発明であり、当然Kが何か言ってくるにちがいない、と思っていた。そして、小説が発表されれば、ミステリーファンはあっと驚嘆の声を上げ、プロの作家になる道もひらけるだろう。東北の地方都市でビル掃除のアルバイトをしながら、こつこつと小説を書きつづけている室田は、そうなったときを夢想し、毎日、Kの反応を待ちつづけた。  しかし、Kからは電話もなければ手紙もこなかった。原稿が返送されてもこない。それでも、室田は諦《あきら》めなかった。Kはある雑誌のエッセイのなかで、〈投稿を大いに歓迎する、自分は投稿原稿には必ず目を通し、できるかぎりコメントを付けた返事を出すようにしている〉と書いていたからだ。  Kは忙しくてまだ原稿に目を通していないのだろう、と室田は思った。だめだと言ってこないことがその証拠だ、と自分に言いきかせた。  そうしてさらに待ちつづけ、半年ほどした頃、新聞に載った広告にひかれ、Tという中堅作家の書き下ろしたミステリーを買って読み、驚愕した。  自分がY出版に投稿したのは短篇であり、Tの小説は長篇である。物語も、登場人物もまったく違う。しかし、メイントリックは、自分の�発明�したものと、そっくりだったからだ。  室田は、頭に血がのぼり、どう考えたらいいか分からなかった。ただショックだった。Kが二、三ヵ月早く自分の原稿に目を通し、発表の場を作ってくれていたら……と恨めしかった。もしそうなっていたら、著名な評論家が広告のなかで寄せていた〈掛け値なし、前代未聞、空前絶後の大トリック!〉という賛辞は、自分に対してのものになっていたはずであった。  そう思って歯噛みしていた室田も、やがて少しずつ落ちついてきた。すると、彼の胸に、一つの疑惑が芽生えた。自分とTの小説のトリックの相似は果たして偶然だろうか、という疑惑である。  それは初め、薄い小さな染《し》みのような存在にすぎなかったが、次第に大きくふくらみ出し、室田は息苦しくなった。偶然ではありえない、と確信した。自分の投稿からTの本が出るまでの半年という期間も、�盗用�を暗示している。いや、それだけではない。Tの小説はY出版から出たものではないが、TとKは大学の同期だった、と何かで読んだのを思い出したのだ。  室田は、誰かが使用したトリックを別の人間がつかって小説を書いても構わない、と考えている。それなら、先着権がはっきりしているからだ。しかし、自分のようにまだ発表の場を与えられていない者のアイデアを盗用するのは許せなかった。言語道断だった。  室田は翌日さっそく上京し、Kに会った。Kは、室田が名乗り、投稿した小説の題名を言っても分からなかった。それは惚《とぼ》けているのではなく、本当に思い出せないようであった。しかし、室田がトリックに触れたとき、それまでとは違った反応を見せた。  明らかに戸惑い、あるいは狼狽《ろうばい》といった反応であった。  室田は、自分の疑いに確信を持った。  ところが、確認すると、Kはやはり覚えていない、と答えた。 「投稿原稿は実に多いものですからね。それでも、何らかの点で私の注意を引いた作品には、ご返事差し上げるようにしているんです。しかし、残念ながら、あなたの作品は私の心にそうした印象を残さなかったようです」  室田は、では自分の原稿を返してくれと言ったが、それに対するKの答えも、〈投稿原稿は返さない決まりになっているし、半年前ではすでに処分してしまっているはずだ〉というものだった。  室田はY出版を出ると、作家のTの自宅を訪ねた。  だが、そこでは忙しいからと門前払い。  仕方なく外から電話をかけ、問い質すと、「きみ、言いがかりをつけるのかね」と怒鳴りつけられた。 「あのトリックは、誰に聞いたわけでもヒントをもらったわけでもない。僕が自分の頭で考えたんだよ。Kとはたしかに友達だが、もしあれだけのトリックを彼が僕に教えたんなら、僕が他社から出す本にそれを使うのを許すわけがないだろう。何が目的か知らんが、怪しからん言いがかりをつけると、ただじゃ済まんよ」  盗人猛々しいとは、まさにこのことだった。室田は悔しかった。悔しくて悔しくてたまらず、電話ボックスの中で涙を流した。KにもTにも、自分のトリックを盗んだという証拠がないのである。  いや、室田が作家や評論家であり、雑誌や新聞に書く機会を持っていれば、彼らの卑劣な行為を暴くのも不可能ではないだろう。下書き原稿はあるし、半年という時間の符合や、TとKの結び付きといった状況証拠もある。しかし、一度も作品が活字になったことのない田舎町のビル掃除人に、何ができるだろうか。新聞や他社の雑誌に、彼らを告発する投書をしたところで、没になるのは目に見えていた。  室田は、寝台料金を倹約するために急行の夜行列車に乗り、帰路についた。  だが、どうにも悔しく、朝まで一睡もできないまま、遂にKとTを殺してやろう、と決意した。他に、自分の悔しさと怒りを収める方法がなかったからである。  殺人を決意すると、室田は、自分が彼らを殺しても誰も自分に疑いの目を向ける者がいない、という事実に気づいた。しかも、先にKを殺そうと、Tを殺そうと、安全だった。彼らは、室田のトリックを盗用した事実を誰にも洩らしていないはずである。また、片方が殺され、残ったほうがたとえ室田に疑いを抱いたとしても、自分の卑劣な行為を明らかにしなければならないその疑惑を、口にすることはないだろうからだ。  こうして、室田はまず作家のTを、次いでKを殺し、自分がY出版に送った小説の題と同じ「完全犯罪」を成功させるのである。  土橋の小説『「完全犯罪」殺人事件』のあらすじは、以上のようなものだった。  これまでの小説にはない題材であり、主人公の室田の悔しさ、怨念は実にリアルで、真に迫るものがあった。  しかも、この小説を書いた男は、持ち込み原稿を突っ返されたのを恨み、二人の編集者を殺した疑いを持たれているのである。  小説と現実を安易に重ねて考えるわけにはいかない。  だが、土橋は小説の男と同じような経験をしているのではないか、と美緒は思った。だからこそ、この題材を迫真的に描けたのではないか。  そして、小説ではKという編集者一人になっているが、それが銀嶺書店の弘田と小松崎だったとしたら——。  土橋には彼らを殺す動機があったことになるわけだし、小松崎が土橋の存在を警察に黙っていた事実や、彼が殺された晩、一介の投稿者を食事にまで誘ったという事情も説明できるような気がしないでもない。つまり、小松崎には、土橋との関係を知られてはまずい事情、土橋に対する弱味があったということであろう。  しかし、そこまで考えて、美緒はふとおかしな事実に気づいた。 「ねえ、どうだった?」  美緒が、読み終わった原稿を手にしたまま何も言わないでいると、いずみが訊いた。 「うん……」  美緒は彼女のほうへ顔を上げ、曖昧にうなずいた。 「どうなのよ、感想は?」 「おもしろかったわ」 「それだけ?」 「そうじゃないけど、今、考えているの」 「銀嶺の弘田さんたちを殺したの、やっぱり土橋という人じゃないかしら?」 「でも、これは小説だから」 「そうだけど、私には作者の怨念のようなものが伝わってきたわ。その怨念は本物よ。だから、作中のKを弘田さんと小松崎さんに置きかえれば、土橋という人を犯人として、これまでいま一つ弱いと言われていた殺人動機がはっきり説明できるわ」  いずみが、美緒の考えたのと同じことを言った。 「私もそう思ったんだけど、ただ、土橋さんが犯人だった場合、ちょっとおかしな点があるのにも気づいたの」 「おかしな点?」 「こんな小説を書いて懸賞に応募しておきながら、小説と同じ動機で実際に殺人をするだろうか、っていう点」 「そうか、うっかりしてたわ」 「でしょう?」 「あ、でも、弘田さんが殺されて土橋という人が疑われたのは、お美緒がたまたまその日に青森の彼の家を訪ねていたということと、そのとき小松崎さんから電話がかかってきた、という二重の予想外の出来事の結果よね。もし、そうした事情がなかったら、警察は彼に疑いの目を向けなかったわけだし、この小説の作者と弘田さんたちの殺された事件を結び付けて考える人なんていなかったと思うわ」 「そうか」  美緒は、ちょっと見なおす思いで同僚の顔を見つめた。  いずみの言う通りだったからだ。  弘田殺しで土橋の名が上がっていなければ、たとえ土橋が小松崎を訪ねていた事実が判明しても、簡単に事情を聞かれるだけで、容疑者にはならなかっただろうし、もちろん、この小説と現実の犯罪を結び付ける者もいなかったであろう。 「だから、やはり、土橋という人が犯人の可能性は相当強いんじゃないか、と思うわ」 「そうね」  美緒にも、またそう思われ始めた。  すると、胸が、ひとりでにドキドキしてきた。 「ただ、小説では編集者より先にTという作家が殺されているけど」  いずみが、考えるように首をかしげた。 「同じ動機でも、全部が小説と同じようになるとはかぎらないわ。小説ではKという編集長が一人なのに、現実は二人殺されているんだから」 「うん。でも、トリックの盗用っていう同じ動機だったら、やっぱりそれを使用した作家がいるはずよ」 「じゃ——?」 「もしかしたら、これから殺されるのよ。少なくとも、犯人はその機会を狙っているんじゃないかしら」  美緒の胸の動悸はいっそう強まった。  もしいずみの想像通りだとしたら、その作家は誰だろうか、と思った。  本人は、薄々土橋の犯行に気づいているかもしれない。だが、土橋の小説のなかにも書いてあったように、よほど危険が迫らないかぎり——命か秘密かという二者択一の瀬戸際に立たされないかぎり——それを公表することはないだろう。  としたら、盗用された土橋のトリックを知る者のない今、その作家を突き止める方法はないのだった。  第六章 +との交叉     1  美緒は、いずみと喫茶店で話した翌二十一日(水曜日)、勝と会った。  場所は、水道橋駅に近い慶明大学理学部の数学科笹谷研究室。教授室の隣りの応接室である。時刻は、午前十一時。会社へ一度顔を出して、抜け出してきたのだった。  美緒の横には壮が座り、小さなテーブルを挟んだ前には勝と精一が腰をおろしていた。  昨夜、美緒が家へ帰って土橋の原稿の件を両親に話すと、精一が勝の耳に入れておいたほうがいい、と言った。  例のごとくの�ご託宣�だが、これには美緒も章子ももっともだと賛成し、それなら壮もいるところで……と、美緒が勝に電話し、今日のこの場所を決めたのである。  土橋の原稿は懸賞の応募原稿なので、やたら社外の人間に——特に警察に見せるわけにはいかなかった。  そこで、美緒は、「小説ルビー」編集部の許可なく原稿の件は公表しないという点を条件にして、小説のあらすじ、自分といずみが推理した内容などを話した。 「もちろん、小説と、現実の事件は関係がないかもしれません。でも、犯人が万一殺人を重ねようとしていたら、取り返しのつかない結果にならないともかぎらない、と父が申すものですから」  美緒は最後に言った。 「そうですか、ありがとうございます。大いに参考になりました」  勝が言って、頭を下げた。「おっしゃるように、安易に小説と現実をごっちゃにするのは危険ですが、もし小説のような事情があったとすると、これまではっきりしなかった犯人の動機が明確になりそうです」 「勝部長さんにそう言っていただけて、ほっとしましたわ」  美緒は微笑んだ。 「ただ、一つお訊きしていいでしょうか?」 「どうぞ」 「私は門外漢なので分からないんですが、小説家の世界、あるいは出版界では、他人の考え出したアイデア、トリックといったものを盗むというような場合が、よくあるんでしょうか?」 「いえ、そんなことありませんわ」  美緒は少し強い調子で否定した。自分がそんな信用のおけない世界にいると思われたら、心外だからだ。 「自然科学の世界では、先着権、プライオリティというんですか……それをめぐる競争がかなり激しく、卑劣な例も少なくない、と伺ったことがあるんですが」  勝が、精一のほうへ顔を向けた。 「ええ、アメリカなどでは日常茶飯事のようです」  精一が言った。「だいたい、他人のアイデアを黙っていただく人間を呼ぶのに�バック・バイター�つまり、背中から噛みつく人、という名詞があるくらいですから。たとえば、誰かが実験データを記《しる》したノートを机の上に放り出しておいたとしますね。すると、それをコピーにとられて一足先に論文に発表され、何ヵ月、ときには何年もかかって得た成果がフイ、なんて場合があるそうです。もっと凄《すご》いというかすさまじいのは、口頭発表ではプライオリティがないのをいいことに、Aが学会で発表中にBが会場から抜け出し、Aの研究を先に論文にまとめて出し抜くといった、嘘のような、まさに生馬の目を抜くといった行為さえ行われている——いや、現在ではみな用心してそれほど酷《ひど》い例はなくなっているかもしれませんが——少なくとも過去にそうした例があった、と聞いたことがあります。  まあ、日本はまだアメリカほどじゃないようですが、何でもアメリカに右へならえですから、いまに同じようになるんじゃないでしょうか」 「なるほど。しかし、小説の世界では、そんな例はないというわけですね」  勝が、美緒に質問を戻した。 「ええ。だいたい、先生方、特に推理作家の先生方は、自分のアイデアを同業者に話しませんし、私たち編集者も、Aという先生から伺《うかが》ったアイデアなりトリックを、Bという先生のところへ行って明かすといった点については、かなり注意していますから。といっても、話のついでについうっかり触れてしまう、といった場合はありますけど……。でも、そんなときでも、A先生が考えられたと分かっているのに、B先生が無断でつかってしまったなんていう話は、私は聞いたことがありませんわ」 「すると、もし土橋の小説のとおりだったとすると、投稿された原稿を没にしておきながら、そこからトリックを盗むというのは、かなり珍しい、卑劣きわまる例というわけですね」 「そうだと思います」 「分かりました。それじゃ、いまのお話をさっそく青森県警の五十嵐さんたちにも知らせ、土橋の行動をこれまで以上に注意して監視してもらうようにします」  勝が言い、腰を上げかけた。  と、それまで、ずっと黙って三人のやり取りを聞いていた壮が、 「あの、いいでしょうか」  と、遠慮がちに口を開いた。     2 「どうぞ」  勝がもう一度腰を落ちつけ、壮の顔に視線を当てた。  その目の奥には、かすかに期待の色が感じられた。  この宇宙人は、いつもこういったかたちで他の人間の気づかなかった点を口にする場合が多いからだ。 「あ、いえ、たいしたことじゃないんですけど……」  壮が、勝の視線に戸惑ったように言ってから、言葉を継いだ。「もし、土橋という人の小説が事実を元にして書いたものだとしたら、そのモデルに対する怒りと怨念から、被害者の描写のどこかに実在の人物を伺わせるような部分がないか、と思ったんです。美緒さんの話では、作中でTと書かれている作家が誰か、突き止める手段はない、ということでしたけど」 「なるほど」  勝がうなずき、 「いかがでしょうか?」  と、美緒に視線を向けた。 「そうですわね……」  美緒は答え、頭のなかで小説の筋と描写を反芻してみた。 「その作家が誰か分かれば、土橋の動きに注意するだけでなく、その作家の側からも万一の事態に備えられます。また、弘田、小松崎殺しに関して、小説のような事情があったかどうかも、聞き出せるかもしれません」 「すみません。でも、思いあたるような先生はおりませんわ」  美緒は言った。 「では、イニシャルはどうでしょうか?」  壮が言った。 「Kが、もし小松崎さんを念頭においてつけたものだったとすれば、Tも実在の作家のイニシャルをつけたとは考えられないでしょうか」 「そうね、それはあるわね」 「イニシャルがTとなると、少しは絞られると思いますが」 「ちょっと待って」  美緒は言うと、バッグから「全日本ミステリー協会」の会員手帳を取り出し、タ行の氏名を見た。  そこには、ざっと数えただけで五十人近くの名が並んでいた。  なかには評論家やミステリー研究家といった人たちもいるので、実作者は半分ぐらい。また、土橋の小説のモデルになった人なら女性ではないはずなので、高岡沙也夏たち数人の女性を除いて、残り約二十人。美緒は、その一人一人について土橋の小説のモデルとの相似を考えてみたが、やはりイメージの重なる人はいなかった。 「やっぱり、この人がモデルだと言えそうな人はいないわ」  美緒は手帳から顔を上げ、Tのつく作家の人数などを説明してから、言った。 「今、また思いついたんですが、もし小説のとおり、土橋という人のトリックが素晴らしく、それが盗用された動機による殺人なら、その作家は、たぶんトリッキーなものを主に書き、ここ一年ぐらいの間にかなり評判を呼んだトリックを案出した——。こんな人だと思いますが」  壮が条件を絞った。  そこで、美緒は、もう一度二十人ほどの作家の名を順に見ていった。  しかし、この一年ほどの間に特にトリックが評判を呼んだ作品を書いた人はいないようだった。  美緒はそう思い、名簿から目を上げかけ、ハッとした。  いたのである。半年ほど前、トリックで評判を呼んだ作家が——。 「思いあたる作家がおりましたか?」  さすがに勝は勘がよく、美緒の顔を注視した。 「いえ……」  美緒は慌てて答えた。  たしかに壮の言った最後の条件にあてはまる作家はいた。しかし、それは土橋の小説のモデルにはなりえないのだ。 「笹谷さんにご迷惑はかけません。もし何か気づかれた点がありましたら、教えていただけませんか」 「いえ、名簿を見ていて、事件とは関係のないことを思い出しただけなんです。すみません」 「そうですか」  勝ががっかりしたように、心持ち乗り出していた上体を引いた。  美緒は気がとがめた。その作家はTのモデルになりえないといっても、美緒のなかに、もしかしたら……という気持ちがないわけではない。  だが、無関係だった場合、�彼女�にかける迷惑を考えると、美緒としてはその名を明かすわけにはいかなかった。  この春、トリックが大きな評判を呼んだ小説を書いた作家——。それは、美緒が現在書き下ろしを依頼している高岡沙也夏だったのだから。  美緒が沙也夏にトリック盗用の疑いをかけたなどと、万一彼女の耳に入ったら、それこそ大変である。彼女は激怒し、今かかっている書き下ろしを断わるだけでなく、清新社の仕事を今後いっさい引き受けない、と言ってくるかもしれない。そうなったら、美緒の責任問題になる。  いや、そうした事情よりも、たいして根拠もないのに沙也夏の名を出し、彼女に迷惑をかけることが、やはり、美緒は一番気がとがめた。  勝は、美緒が何か隠しているのを、感じたようだった。だが、しつこく追及せず、ちょっぴり残念そうな顔をして立ち上がり、礼を言って帰って行った。 「Tのモデルになった人に思いあたったみたいでしたね」  勝を廊下に送り出し、三人で元の椅子に戻ると、壮が言った。  この人は鈍感なのか敏感なのか、分からなくなるときがあるのである。 「ええ」  美緒は今度は正直に答えた。 「ほう、誰かねそれは?」  精一が興味をひかれた目を向けてきた。  こちらは、数学という宇宙人の暗号以外の問題に関してはすべて鈍感なのだ。  美緒は、高岡沙也夏について二人に話し、勝に言わなかった理由を説明した。 「そうですか」  壮が考えるような目をして、言った。 「Tのモデルが高岡先生だったなんていう可能性はないわよね?」  美緒は、壮の保証の言葉を求めた。自分が勝に沙也夏の名を明かさなかったために、沙也夏に危険が及んだら……ふとそう思い、不安を感じたのである。 「と思いますが、小松崎さんと高岡さんの亡くなったご主人は、大学時代の親友同士だったという話でしたね。これは、小説のなかのKとTが大学の同期だった、という点と似ていませんか」  美緒はアッと思った。  気づかなかったが、たしかにそれは符合していた。 「それじゃ……?」 「小説中の作家を女性にしたのでは、あからさますぎるので、イニシャルだけ同じTにして、男性にしたのかもしれません」 「じゃ、勝刑事さんにこれからすぐ電話して、お知らせしなければいけない?」 「ですが、僕らの勘繰《かんぐ》りすぎで高岡さんに迷惑をかけたら、申し訳ないですし、美緒さんも困るわけですね」 「なら、どうしたらいいの?」 「もう少し様子を見てからでもいいでしょう。もし高岡さんが土橋氏のトリックを小松崎さんか弘田さんから聞いて盗用していたのだとしたら、二人が殺された事情を薄々気づいているはずですし、警察に言われなくても当然それなりの用心をするはずですから。それに、勝部長さんの連絡を受けて、五十嵐さんたちも土橋氏の監視を強めるでしょうし」 「そうね、大丈夫よね?」 「ええ」  壮の返事を聞いて、美緒はホッとした。彼の言うとおりだったからだ。 「じゃ、私、帰るわ。仕事中に抜け出してきたから」  彼女は立ち上がった。     3  寺本たちが勝から土橋の小説についての連絡を受けて、一週間が過ぎた。  今日は十月二十八日(水曜日)だから、弘田の殺された事件の発生から数えると四十日が経ったのである。  勝たち警視庁も寺本たちも、弘田、小松崎を殺した犯人は土橋滋に間違いない、と考えていた。彼への疑いは強まりこそすれ、弱まりはしない。  その後、笹谷美緒たちに出した脅迫状の投函方法が判明した。  田中某という人間から一万円の現金と一緒に五通の封書が突然送られてきて、「それらを九月三十日に東京駅前のポストに投函してくれ」——そう頼まれた、と東京墨田区のある便利屋が届け出たからだ。  とはいえ、封書を包んでいた紙はとっくに処分されてしまっていたし、便利屋は消印が青森だったような気がするといった程度の記憶しかなかった。だから、彼の証言も決定的な武器にはなりえず、依然、土橋を追いつめるこれといった手掛かり、証拠はつかめなかった。  もしかしたら、土橋が次の犯行に動き出すのではないか——。  勝の連絡を受けてから、寺本たちはそう思い、彼の監視を強めている。警察のメンツにかけても、第三の被害者を出すわけにはいかなかった。と同時に、もし土橋が動き出せば、そのときこそ、彼を押さえる絶好の機会だったからだ。  ところが、この一週間、土橋はまるで変わった動きを見せなかった。平日は朝からずっと部屋に閉じこもり、午後三時半過ぎに自転車で学校へ出かけて行く。夜、学校から帰る時間もだいたい決まっていて、九時半から十時までの間に、一度も寄り道せずに帰宅している。  日曜日は、昼過ぎに近くのスーパーへ買物に行っただけですぐ戻り、あとは一歩も外へ出なかった。  弘田と小松崎の殺害の間隔は二週間なのに対し、小松崎が殺されてからすでに四週間になろうとしていた。それなのに、こんな調子なのである。 〈土橋が、今度は作家の命を狙うかもしれない——〉  これは、あくまでも彼の書いた小説の動機で彼が殺人計画を立てた、と仮定しての話である。だから、その仮定が外れていれば、彼はもう二度と寺本たちに尻尾をつかませるような行動はとらないにちがいない。  また、たとえその仮定が正しかったとしても、寺本たちの監視に気づいていれば、ほとぼりが冷めるまで次の行動を起こさない可能性が高い。  寺本たちは、むろん土橋に気づかれないよう注意して見張っているつもりである。が、すでに何度も事情を聞いているので、彼は当然警察の監視を頭に入れているだろう。  二十八日の夕方四時近く、寺本が五十嵐とともに署へ帰ると、土橋監視班の刑事から報告が入ったところらしく、 「今日も奴は動かなかった」  と、谷山がぶすっとした顔で言った。 「やっぱり、自転車《ずでんしや》で学校さ行っだんですが?」  五十嵐が訊いた。 「うん、いつもの通りだ」  寺本も二度監視を担当したから知っているが、これから土橋の下校時までは、監視班の二人にとって退屈な時間だった。覆面パトカーの中から、あるいは散歩を装って歩きながら、それとなく校門を出てくる彼を待っている以外にない。  以後、彼がまっすぐアパートへ帰った場合もそうだ。近くに借りてある民家の二階に上がり、朝の勤務交代まで、交互に彼の部屋のドアを見張りつづけるのである。 〈やれやれ、今日もだめか……〉  寺本はそう思い、落胆した。  ところが、その数時間後、監視班から思いもよらない報告が入ったのだった。  すでに谷山は帰り、捜査本部の部屋には寺本たち数人が残っていたときである。 「ああ、遠藤だが……」  と、軽い調子で電話に出たデスクの顔が、 「なに!」  突然引きつった。 「確かかね? ……よし、分かった。とにかく一人は残ってどこのタクシーを呼んだのか調べ、一人はすぐアパートへ行ってみてくれ」  時刻は十時半になろうとしていた。 「土橋がいなくなった」  遠藤が乱暴に受話器を置くと、怒ったように言った。  寺本たちは息をつめて、説明を待った。 「十時を過ぎても出てこないので、用務員にそれとなく調べてもらったらしい。すると、いつものように四時前に一度来たことは来たものの、気持ちが悪くなり、すぐタクシーを呼んで帰った、という同僚教師の話だったんだそうだ」 「そんでしたら、本当に家さ帰っでえる可能性もまだあるわげですな」  五十嵐が言った。 「そうだが」  寺本たちはその可能性を願った。が、言った五十嵐の顔も、そうでない場合を想像してか、強張っていた。  惧《おそ》れは間もなく現実になった。  土橋はアパートの部屋に帰っていない、という報告が入ったのである。 「油断だ、完全な油断だ」  遠藤が青ざめた顔でつぶやいた。小心な事務屋という感じなので、責任問題を気にしているのかもしれなかった。 「毎日きづんと学校さ行ぎ、決まった時間に帰っでえだのは、やづの作戦だったんですがな」 「うん」  寺本も、たしかに油断があったと思う。しかし、自分が監視班だったとしても、出勤してすぐタクシーで抜け出すとは予想しなかっただろう。  土橋がどこへ行ったかを探る手掛かりは、あとタクシーだけだった。遠藤が谷山や管理官に電話連絡を入れている間に、学校に残った刑事からその報告が届いた。  学校でいつも利用している津軽交通らしいという話から、会社に連絡して調べてもらったところ、土橋を乗せたと思われる運転手が判明したのである。  ——無線の指示で四時頃R高校体育館裏の通用口まで行き、三十歳前後の男を青森駅まで乗せた。  運転手はそう述べたという。 「駅さ着えだのは四時二十分頃だそんだ」  電話を受けた五十嵐が、寺本たちに説明した。「だがら、土橋は、それがら列車さ乗っでどごがへ向がっだごどは、ほぼ間違《まづが》えねえ」  五十嵐の言葉に、寺本はすぐ時刻表を取ってきて調べた。  普通列車で近くへ行った場合は、見当がつかなかったが、もし第三の犯行を目論んでその対象者のもとへ向かったとすれば、長距離列車に乗った可能性が高い。  四時二十分以後、間もなく青森を出る列車は、東北本線の盛岡行き特急「はつかり26号」(四時四十分発)、奥羽本線の大阪行き寝台特急「日本海2号」(四時二十五分発)と「日本海82号」(四時四十五分発)、の三本があった。  はつかり26号の場合、盛岡で七時十三分発の新幹線「やまびこ80号」に連絡しており、それが仙台に着くのは八時二十九分、終点の上野に着くのは十時三十四分。  だから、もし土橋が「はつかり」「やまびこ」と乗り継いで東京方面へ向かったとすれば、すでに列車を降りてしまっており、つかまえようがなかった。  では、「日本海」のほうはと見ると、いずれも山形県の酒田、鶴岡を過ぎ、新潟県内を走っているところである。が、こちらも、たとえ警察官が乗り込んでも、ベッドを一つ一つ覗いて歩ける時間ではない。点検は、明日の朝まで待たなければならないだろう。 「十中八九、東京だな」  一緒に時刻表を覗き込んでいた五十嵐が言った。 「すると、東京在住の誰か……作家の命を狙っている?」  寺本は彼の顔を見た。 「その可能性が強えんでねえがな」 「じゃ——?」 「すぐ、警視庁の勝部長だづさ連絡したほうがええだろう」 「しかし、土橋の狙っている相手が分からないでは、どうにもならないと思いますが」 「すかだねえ、とにがぐ土橋がえなぐなっだごど、知らせべ」  五十嵐が言うと、遠藤と二言三言相談し、電話機に向かった。     4  五十嵐が勝と電話で話した十五分後、美緒は勝から電話を受けた。  勤めの帰りに壮と一緒に知人の家へ呼ばれて行き、三十分ほど前に帰宅したばかりだった。  電話のベルが鳴ったのは、美緒を送ってきた壮が、 「それじゃ、そろそろ僕は……」  と、立ち上がったとき。美緒が、 「十一時過ぎに、誰かしら?」  と言いながら出て行って受話器を取ると、勝だったのである。 「夜分遅く、申し訳ありません」  名乗った後で、勝が言った。  その声は、いつになく固い感じだった。  美緒はふっと緊張した。  こんなに遅く、たいした用もなしに勝が電話してくるはずがないからだ。  美緒は空唾を呑んで、勝の次の言葉を待った。 「実は——」  と、勝がすぐに話し出した。「土橋が自宅を出て、どこへ行ったか分からなくなったんです。夕方、勤め先の学校へ顔を出し、そこからタクシーで青森駅まで行き、消えてしまったようです。五十嵐部長たちは東京へ向かった公算が大きいと見ているんですが、乗り継いだとみられる新幹線はすでに上野に着いた後で、土橋の行き先を突き止める手掛かりはまったくないんです。彼が上京したとき利用していたという御茶ノ水のHホテルにも、泊まっていませんし」  美緒には、勝の用件の見当がついた。 「それで、もし彼から連絡がありましたらお知らせいただきたいんですが……」  勝がここで一度言葉を切り、「今夜お電話したのは、それより、先日伺った土橋の小説の件なんです」  予想したとおりのようであった。 「笹谷さんは、先日、小説中のTのモデルになった作家について、想像がつかれたんじゃないでしょうか」 「…………」 「私の勝手な推測ですので、間違っているかもしれません。ですが、もし当たっていたら、ぜひその作家の名を教えていただきたいんです」 「すみません。たしかに、勝部長さんの言われるとおりでした。でも、想像がついたといっても、それこそ間違っている可能性が強いんじゃないかと思い、いいかげんなお話で相手の方にご迷惑をかけては、と申し上げなかったんです」 「笹谷さんにはもちろんですが、もし無関係でしたら、相手の方にも決してご迷惑はかけません。ですから、その名前を教えていただけませんか。もし土橋が第三の殺人を決行しようとしているのなら、どうしても食い止めなければならないんです」 「分かりました。それじゃ、ちょっとお待ちください。ここにカレもおりますので、代わりますから」  美緒は言うと、電話機の保留ボタンを押して受話器を置いた。そして、廊下へ出て玄関へ行きかけていた壮と両親に簡単に事情を説明し、壮から高岡沙也夏の名を告げてくれるよう、頼んだ。  壮は一瞬戸惑ったような顔をしたものの、 「分かりました」  と答え、すぐに電話機に寄って、受話器を取った。     5 「函館、函館ですが?」  勝からの電話に出た五十嵐が、思わずといった感じで声を高めた。  そばで聞いていた寺本たち数人の刑事は、顔を見合わせた。  五十嵐はそれから五分ほど話し、 「ありがどうございます」  と言って、電話を終えた。  東京の勝たちに土橋失踪を知らせた反応が、届いたのだった。 「土橋は御茶ノ水のホデルにも泊まっでえねえ。すかす、小説のながでTと書がれでえだ作家が分がった。んにゃ、分がったどえっても、まだ確認がとれだわげでねえが。函館さ住んでえる高岡沙也夏……おれどテラさんは、弘田の葬式のどぎ会った女《おなご》の作家だ」  五十嵐が勝の話を伝えた。  すでに谷山も出てきて、彼や遠藤は署長室で対策を相談していた。 「それじゃ、土橋は、はつかりや新幹線で東京へ向かったのではなく、津軽海峡を渡って函館へ行ったんでしょうか」  寺本は言った。 「その可能性もあるづごどだ」 「函館へ行ったとなると」  寺本は時刻表を繰り、「青森を十七時五分——五時五分に出る青函連絡船があります。四時二十分頃駅に着いたのなら、これに乗った可能性が高いですね」 「函館|着《ちやぐ》は?」 「二十時五十五分……だいたい九時です」 「そんじゃ、もう二時間半も前に陸《おが》の上か」 「高岡沙也夏の警護はどうなっているんでしょう?」  別の刑事が訊いた。 「警視庁がら北海道警に依頼しだそうだ。高岡沙也夏が現在、どこでなんばしてるがどえっだごどは、道警からうぢにも直接報告が入えるようしでおえでくれだらすい」 「家にいてくれればいいですが」 「我々も函館へ行くんでしょうか」 「それば分がらねえ。ま、とにがぐ、谷山さんたづさ知らせでくる」  五十嵐は、寺本の質問に顔の前で手を振ると、 「もす、何が新《あだら》すい情報が入っだら、すぐ知らせでくれ」  言って、部屋を出て行った。  高岡沙也夏の住んでいる元町を管轄しているという函館港湾署から電話がかかってきたのは、それから十分もしないときだった。  まだ五十嵐たちが部屋へ帰っていなかったので、寺本が電話に出た。 「高岡沙也夏は外出している模様です」  互いに名を名乗り合ったところで、相手の石橋という警部補が言った。 「隣家に住む主婦によると、夕方四時頃、二、三日留守にするがよろしくと言って出て行ったという話です。行き先は聞いてないが、時々東京か札幌へ行っているようなので、どちらかではないか、ということです」 「その後、誰かと会って帰宅し、家の中で殺されている、といった可能性はないでしょうか?」  寺本は訊いた。 「今のところ、鍵を壊して入るわけにゆきませんので、そこまでの確認はできません」 「隣家から、出入りは見えないんですか?」 「外へ出なければ見えないそうです」 「分かりました。どうもありがとうございました」  寺本は礼を言って、電話を切った。  少しホッとしていた。  土橋が五時五分に青森を出る青函連絡船に乗ったとしても、函館に着くのは八時五十五分(約九時)。ところが、高岡沙也夏は四時頃、遠くへ出かける様子で家を出たという。その後、五時間も函館にとどまっていた可能性は薄いだろう。  では、高岡沙也夏が土橋に呼ばれて青森へ来たという可能性はどうだろうか。  青函連絡船は、ほとんどぴったり逆に、函館を五時に出て青森に八時五十五分に着く二十二便がある。つまり、彼女がそれに乗った場合、青森へ来るのは約九時。  としたら、これも、土橋が四時二十分頃に青森駅までタクシーで行っていた事実と考え合わせると、可能性が薄いだろう。  こう考えると、あとは、高岡沙也夏の外出は土橋とは関係がないか、土橋が適当な口実を設けて彼女を呼び出し、函館と青森以外の場所、たとえば東京、札幌といった場所で会おうとしているか——であった。そして、もし後者だった場合、寺本たちには手の打ちようがない。 「どうだね?」  寺本が同僚刑事に電話の内容を話し、署長室へ知らせに行こうとしているとき、五十嵐や谷山が帰ってきた。  その後、寺本たちは青森駅に電話をかけ、青森を十七時五分(五時五分)に出た青函連絡船七便の乗船名簿に土橋滋の名が、函館を十七時(五時)に出た二十二便の名簿に高岡沙也夏の名がないかどうか、調べてくれるよう依頼した。  だが、その返事が届く前に、寺本と五十嵐は青森駅までパトカーを飛ばし、午前○時三十分に出る青函連絡船の一便に乗った。  坐して待っていても仕方がないので、手分けして函館と東京へ行ってみることになったのである。  乗船名簿を調べた結果は、船が出港して一時間ほどした頃、寺本が本部に電話をかけて聞いた。 「なんだか妙な具合なんだが、どうやら、高岡沙也夏が今のところ無事であるのだけは確実らしい」  谷山がもってまわった言い方をした。 「居場所が分かったんですか?」 「居場所は分からんが、土橋はゆうべ五時五分に青森を出た連絡船に、高岡沙也夏は五時に函館を出た連絡船に、ともに乗っていたんだよ」 「すると、二人は完全に海の上で擦れ違いですか?」 「そう」 「しかし、土橋が高岡沙也夏のいない函館へ向かった、というのはどういうわけでしょうか?」 「分からんが、彼女の外出を知らずに殺しに行ったのかもしれん」  寺本も、そうかもしれないと思った。が、一方で、何か引っかかるものを感じた。  土橋と高岡沙也夏は、青森と函館をともに五時(正確には土橋は五時五分)に出て、函館と青森へともに九時五分前に着く連絡船に乗っていた——。  下りと上り。一方をマイナスとすれば、一方はプラス。津軽海峡の真ん中で船が擦《す》れ違う以外、両者にまったく接点はない。津軽海峡という大きな溝、三時間五十分(約四時間)という長い時間の差。これらは、二人の移動によっても、少しも埋まったり縮まったりすることがないのだ。 「というわけで、きみたちの函館行きは無駄になってしまったようだがね」  谷山が最後に笑いを含んだ声で言ったが、寺本は逆に、不安を感じた。  はっきり意識したわけではないが、何かが起こりそうな、あるいはすでに起こっているような、胸騒ぎに似た感じであった。  第七章 函館・立待岬《たちまちみさき》     1  十月二十九日(木曜日)、午前八時半。  昨夜、函館駅前のホテルに泊まった北野由美子は、終点「谷地頭」で市電を降りた。  谷地という名からも想像がつくように、このあたりは函館山の東南の麓にあたる低地だった。  石川啄木が何首もの歌にうたっている憧れの女《ひと》、智恵子に会ったところだ。日記にも、「智恵子さん! なんといい名前だろう! ……話をしたのは、たった二度……一度は谷地頭のあのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で……」と書いている。  由美子は、綺麗な家並《やなみ》のつづく広い通りを三百メートルほど歩き、左へ折れた。海を望む市営墓地の間を通り、立待岬までつづいている道だった。  天気は快晴。そのせいか、昨日より空気が冷たい。ちょうど紅葉の最後の頃らしく、振り返ると、函館山は全山が赤みがかった黄色に染まっていた。  大きな病院の前を過ぎると、道はゆるい登りになった。冬を迎える準備だろう、家々の軒下には大根や蕪《かぶ》が吊《つる》されている。  道なりに右へ曲がった。左に寺があるものの、もう民家はない。道の両側は墓地だった。右の山側は道路より一段高くなり、左側は海に向かって斜面になっていた。坂の勾配《こうばい》が多少大きくなったところで足を止めて体を左へめぐらすと、墓石のかなたに函館の街と湾曲した大森浜が望めた。  昨日買ったガイドブックによると、彼女の目的の啄木一族の墓は、この墓地の外《はず》れ、左手にあるはずである。彼女はまずそこにお参りし、岬まで行ってくるつもりだった。  由美子は二十六歳。池袋にある大きな書店の店員である。彼女は今、失恋の傷心から北海道へ来ていた。勤め先に無断で休んでいるので、帰れば首になるかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。二年間交際をつづけてきた男に、別の女性との結婚を告げられた一昨夜、ただ東京から離れたいという思いだけで、上野を出る夜行列車に乗ってしまったのである。  現金の持ちあわせは、切符の購入でなくなってしまった。だから、下着やセーター、バッグなど旅に必要な物は、昨日青森に着いてから、カードで預金をおろして買った。そのなかには、彼女が中学生の頃から好きだった啄木の歌集も入っていた。  由美子は子供の頃から、親にも友達にも、少し変わっていると言われた。人とワイワイ騒いで遊ぶより、独りで本を読んでいるのが好きな文学少女だった。それで、今度も、自分の今の気持ちにぴったりしそうな晩秋の北海道へ行こうと決めたとき、真っ先に啄木の墓を思い浮かべたのだ。  その墓は、坂を登りきる直前にあった。道路脇に白い標識と市の案内板が立てられているので、見逃すことはない。  啄木は岩手県の渋民村で生まれ、東京で死んだが、生前の彼の希望で、妻や母とともにここに葬られているのである。  由美子は狭い石段を登り、石塔の前で頭を垂れ、手を合わせた。  墓碑には、   東海の小島の磯の白砂に   われ泣きぬれて   蟹とたはむる  の歌が刻まれていた。  啄木自身の筆による文字を拡大したものだという。  由美子は、石塔が見おろしている函館の街と海岸を見やった。十年以上も前から親しみ、時々ひとりで口ずさんだりしていたいくつもの歌。それを作った啄木本人がここに眠っているのだと思うと、感慨が湧いた。  来てよかった、と思った。誰もいないというのが、いっそうよかった。  一昨夜、夜行列車の中で啄木の墓へ行こうと考えたときは、そこで死のうか、という思いが脳裏をかすめた。だが、今はそうした気持ちはまったくない。何かの拍子に男との楽しかった出来事がよみがえると、東京へ帰ったときの彼のいない現実が想像され、堪えきれない気持ちになるが、そうでないときは旅を楽しんでいた。  失恋の末の独り旅——。それは、彼女のなかで、客観化された一つの言葉になりつつあった。だから、そこには甘い感傷があった。自分が小説のヒロインになったような思いに重なっていた。  彼女は、帰りにもう一度お参りすることにし、石段を降りた。  道は、笹藪の高い斜面の上に、海を見おろしてつづいていた。かつて、啄木も散歩したかもしれない道である。  その道もわずか二、三百メートルで終わりに近づき、前方の視界が大きくひらけた。ゆるやかな坂の下に、駐車場と芝生の斜面が、海に向かって突き出していた。  立待岬である。  手前、左下に、「啄木」の名付け親である与謝野鉄幹と妻晶子の歌碑があった。  由美子は、それは後で見ようと思い、まっすぐ坂を下って行った。  前方は、津軽海峡が太平洋の水平線に向かって溶け、右手かなたには津軽、下北の両半島が薄鼠色にかすんで見えた。左手は、もちろん啄木の愛した大森浜から、湯ノ川温泉、函館飛行場を経て汐首岬までの海岸線。その背後の山並が、青い稜線をくっきりと描いてつづいていた。  シーズンを過ぎた週日の朝なので、人の姿はどこにもない。茶店も開いていなかった。  由美子は、来てよかった、とまた思った。  立待岬と彫られた石と案内板を見てから、四阿《あずまや》のほうへ戻り、先端の崖の上まで行ってみようと、歩き出した。  そのときだ。  駐車場を囲っている木の柵の外側、芝生の斜面に、人の姿が見えた。  彼女は驚いて、足を止めた。  誰もいないと思っていたからである。  男のようだった。海を見ながら斜面に腰をおろし、そのまま後ろに体を倒したような恰好で寝ていた。  彼女は引き返そうか、そのまま行ってみようか、と迷った。  が、それは一瞬で、男の様子がおかしいことに気づいた。  芝生はまだ湿《しめ》っぽいはずだったし、海からの風を受けて横になるには寒すぎる季節である。それに、彼女がここに立ってから、ぴくりとも動かない。 〈もしかしたら、死んでいるのではないか……〉  そんな想像が、脳裏をかすめた。  恐怖が、彼女の心をわしづかみにした。  近づいて確かめる勇気はなかった。  彼女は身をひるがえした。  もう啄木の墓も何もなく、途中でパンプスの片方が脱げると、もう一方も捨て、墓の下の集落まで走った。     2  同じ二十九日の朝十時、美緒が出社すると、高岡沙也夏が訪ねてきている、と同僚に告げられた。  五分ほど前に見え、今、編集長の西村と話している、という。  美緒は驚きながらも、彼女が無事だったことにひとまず胸をなでおろしながら、応接室へ急いだ。  昨夜、勝に壮が沙也夏の名を告げた後、三十分ほどして勝から報告の電話があった。壮は帰らないで待っていたのである。  勝によると、沙也夏は夕方四時頃、二、三日の予定でどこかへ出かけたらしい——。  それを聞き、もしかしたら沙也夏は東京へ来るのかもしれない、美緒はそう思ったのだが、まさか今朝訪ねてきていようとは想像しなかったのだ。  清新社は、文芸部のある三階に応接室はなく、二階に二つ並んでいた。  美緒はその一つをノックし、西村の返事を待って、中へ入った。 「いらっしゃいませ」 「朝早く、ごめんなさい」  美緒の挨拶に、沙也夏がにこにこ笑いながら答えた。  いつものピンクの縁のサングラスをかけ、黒いワンピースの上にモノトーンの千鳥格子のジャケットを着ていた。 「M社の仕事で来られたんだそうだが、これで函館へ帰ったらしばらく出てくる予定がないということで、寄ってくださった」  西村が言った。 「そうですか、わざわざありがとうございます」  美緒は頭を下げ、西村に飲みもののオーダーをしているかどうか確認した。  隣りが喫茶店なので、電話すると、運んできてくれるのである。 「どうせ来るだろうと思って、きみの分も頼んでおいた」 「すみません」  西村に礼を言い、美緒は彼の脇に腰をおろした。 「あの、飛行機ですか?」  美緒は、勝に聞いていた話などおくびにも出さずに訊いた。 「いえ、列車よ。飛行機は、こんなに早く着く便はないわ。一番早くて函館が九時五分だから、羽田に着くのはまだだいぶ後……十時半頃ね」  沙也夏が答えた。 「青函連絡船から『ゆうづる6号』に乗り継いで、今朝早く、七時前に上野へ着かれたんだそうだ」  西村が言った。 「それじゃ、昨日の夕方、おうちを出られて?」 「そう、五時ぴったりに函館を出港する連絡船だったかしら。それが、ちょうどブルートレインのゆうづる6号に接続していたの」  美緒はオヤッと思った。  沙也夏の�ブルートレイン�という言葉に、ちょっと引っかかったのだ。  が、彼女はそれは口に出さず、 「たしか、青森を深夜零時近くに出て、上野に九時二十分頃に着く『はくつる4号』という寝台特急があったように思いますけど。それでしたら、連絡船、もう一便、遅いのでよかったんじゃありませんか」  この前調べた時刻表を思い出しながら、言った。 「お仕事だけだったら、そうね。でも、昔、寄宿していた大船の叔母の家に先に顔を出そうと思っていたから」  沙也夏は、それで叔母の家まで行って来てここへ寄ったのだ、と説明した。 「ただ、残念ながら、留守で会えなかったんだけど」  美緒は、もしかしたら土橋とどこかで会ったのではないかと思い、いろいろ訊いたのである。しかし、それはどうやらなかったようだった。  土橋が警察の目をあざむいていなくなったのは、次の犯行のためではなかったのかもしれない。美緒はそう思った。いや、たとえ、そうであったとしても、沙也夏が小説中のTのモデルだとはかぎらないのだ。  ウエイトレスがコーヒーを運んできたのを機に、西村が話題を依頼している書き下ろし小説に移し、それから三、四十分話して、美緒は玄関まで沙也夏を送った。 「どうしたんだね、高岡女史の乗った船や列車を気にしていたようだったが」  部屋に戻ると、西村が訊いた。 「別に何でもありません」 「そうか、だったらいいが」  西村はそれ以上追及せずに仕事に戻った。  そこで、美緒は席を外し、ふたたび応接室へ降りて、勝に電話をかけた。  沙也夏が東京へ来ている、と知らせたのである。 「そうですか。わざわざありがとうございます」  勝が美緒の話を聞いてから、言った。「しかし、どうやら、彼女の所在は関係がなくなりました」 「……?」 「土橋は死んでいたんです。石川啄木の墓がある、函館の立待岬というところで。覚悟の自殺のようです」     3  同日午後三時。  寺本と五十嵐は、函館山の北の麓、坂道が何本も平行して海のへりまで下っている弁天町の函館港湾署にいた。  土橋の遺体の解剖結果が届くのを待っているのである。  三階にある刑事課の部屋からは函館港が一望に見わたせ、左手、倉庫の屋根の向こうには、函館ドックの赤と白のクレーンが覗いていた。  ボォォーッという音に、寺本が右手奥に目をやると、連絡船の大きな船体が今まさに動き出そうとしているところだった。  この汽笛の音も来年の三月までか……。寺本はふとそう思い、土橋は昨日どういう思いを抱いてこの海峡を渡ってきたのか、と考えた。  土橋は、すでにそのとき自分の死を決意していたのだろうか。それとも、高岡沙也夏の自宅を訪ね、彼女を殺すつもりで四時間の海の旅をしてきたのだろうか。  もし後者だったら、いくら待っても彼女の帰宅する様子がないため、いずれは……と考えていた自殺を、同郷の歌人が愛した地、その墓のある地で実行に移した——ということになるのだった。弘田と小松崎を殺し、さらに高岡沙也夏をも殺そうとして用意してきた毒を飲んで。  いずれにしても、彼が自殺したという点は確実らしい。  死体は、海に向かって芝生に腰をおろし、毒を飲んだ、といった恰好で何の乱れもなく横たわっていたし、毒を混入して飲んだと見られるウーロン茶の缶も死体の傍らに落ちていた。  いや、そうした現場の状況は誰かが彼を殺した後で擬装できたかもしれないが、何よりも、彼を殺そうとする者などいなかったはずなのだから。  しかし、そう思いながらも、寺本の胸には小さなこだわりが残った。彼は、いま一つ納得できないものを感じていた。  土橋は高岡沙也夏を殺そうと函館まで来たが、いないので自分が死んだ——。  港湾署の刑事たちに寺本と五十嵐も加わって出した一つの推理だったが、これがまず苦しい解釈のように思えた。  では、土橋は初めから啄木の墓のある立待岬で死ぬつもりで函館へ来たのだろうか。  ここ数時間の谷山たちの調べで、土橋が同郷の啄木に傾倒していた事実が判明した。だから、彼の死が自殺なら、こちらの場合だった可能性がより高いだろう。  だが、ここにも、〈では高岡沙也夏が函館に住んでいたのは偶然か〉という引っかかりが残るのだ。土橋は、沙也夏の存在とは関係なしに、函館へ来たのだろうか。さらには、寺本が深夜の船上でふと考えたように、高岡沙也夏と土橋の二人が、昨夕まさにプラスとマイナスのように青函連絡船で海峡を移動したのは、偶然だったのだろうか。  その後、勝からの連絡で、沙也夏は現在東京へ行っている、と判明した。青函連絡船から乗り継いだ寝台特急で、今朝早く上野に着いたらしい。この彼女の東京行きも、偶然だったのだろうか……。  引っかかりがあるとはいっても、寺本にも「土橋自殺説」を覆《くつがえ》すだけの根拠はなく、やはり自殺だったのだろう、と考えざるをえないのであった。  寺本が、港を出て行く連絡船を見送りながら、あれこれ思考をめぐらせていると、港湾署の刑事課長が帰ってきた。  解剖の結果が出た、と知らせてきたのである。  寺本と五十嵐が土橋の死を知ったのは、これよりおよそ五時間前、午前十時過ぎであった。  今朝四時二十五分に青函連絡船が函館に着くと、朝市のそばの食堂で熱い味噌汁とアツアツ御飯のイカ刺し定食を食べ、コーヒーを飲んでから、函館港湾署へ顔を出した。  その後、駅へ戻って、土橋と思われる男を見なかったかどうか、駅員や、バス、市電、タクシーの運転手などに尋ね、何の手掛かりも得られないまま、高岡沙也夏の家まで行き、近所の聞き込みをしていた。  そこへ、港湾署の刑事が、「土橋と思われる男の死体が見つかった」と知らせてきたのである。  二人はパトカーに乗り、死体の発見された立待岬まで行った。  そして、岬の先端に近い芝生の斜面に、海と空でも眺めているように横たわった土橋を見たのであった。     4 「死因はやはり青酸カリ中毒のようです」  部屋へ入ってきた刑事課長が、寺本と五十嵐の前に立って、言った。  四十七、八歳の、顔がちょっとすすけたような色をした男である。 「胃の中には、ウーロン茶が入っていたそうです。鑑識のほうの検《しら》べで、死体の傍《かたわ》らにあったウーロン茶の缶から青酸カリが検出されていますし、プルトップを引いて缶を開け、そこに青酸カリを入れて飲んだとみて九分九厘、間違いないでしょう」  缶の一番表層部分に土橋の指紋が付いていた事実も、すでに判明していた。 「死亡推定時刻は、昨夜九時から十一時の間です」  課長は、書類を片手に、立ったままつづけた。 「するど、九時五分前に着ぐ連絡船で降りでがら二時間以内に死んだ、とゆうわげですが」  五十嵐が言った。 「そういうことです」 「体の傷などは、どんだったんでしょう?」 「死因に不審を抱かせるようなそうしたものは、一切なかったそうです」 「というど、やっぱし、自殺以外に考えられねえつごどですが」 「と思いますな」  五十嵐が考えるような目を宙に漂わせた。彼も、寺本と同じようなこだわり、疑問を感じているのだった。  土橋のポケットから財布、手帳などが紛失していない事実は分かっていた。ただ、分からないのは、彼が船を降りてからどうやって立待岬まで行ったのか——という足取りである。  この足取り調査は、彼の死が判明した後、港湾署の刑事たちが、朝の寺本たちの聞き込みに重ねてさらに念入りに行なった。それにもかかわらず、歩けば一時間近くかかる距離だというのに、市電、バス、タクシーの運転手をはじめとして、誰も彼らしい男を見たという者はいないのだった。  こうした事実は、弘田の場合と同様に、彼が誰かに別の場所で殺され、車で運ばれたと仮定すれば、うまく説明がつく。どうやって青酸カリ入りのウーロン茶を飲ませたのかといった方法は不明だが、少なくとも、現場の状況を自殺に見せかけるのは不可能ではないからだ。  しかし、寺本と五十嵐がいくらそう考えても、土橋を殺す動機を持った人間の想像がつかないのだった。高岡沙也夏なら、もしかしたら�返り討ち�といった可能性もありうるが、彼女には物理的に彼を殺すことができなかったのである。 「分がりました。えろえろご面倒、おがげしました」  五十嵐が礼を言った。 「それで、どうしますかね?」  課長が訊いた。 「五時の連絡船で青森さ帰ります」 「青森と東京で起きた連続殺人事件も、犯人の自殺ということで終わり、というわけですな」  課長が、すすけたような顔に笑みをにじませた。  第八章 津軽海峡4時間の壁     1 「そんな! そんなこと、あるわけないでしょう」  美緒は思わず叫ぶように言って、壮の言葉を遮《さえぎ》った。  それから慌ててあたりを見回し、声をおとしてつづけた。 「そんなこと……絶対に、絶対にありえないわ」  先日、いずみに土橋の小説を見せてもらった神保町交差点近くの喫茶店である。  土橋の死体が函館立待岬で見つかった二十九日の夕方、七時過ぎ。寺本と五十嵐が、昨夕高岡沙也夏が乗ったという函館を五時に出る青函連絡船に乗り、津軽海峡の中ほどまで来た頃だった。  美緒の横に座っているのは壮、前にいるのは勝である。  周りは、みな、勤務を終えた後のひとときのお喋りを楽しんでいる女性客ばかり。他人の話に関心を寄せている者などいそうになかった。  美緒の勢いに圧倒されてか、言いかけた壮が口をつぐんだ。  でしゃばったようで、勝の手前、美緒は恥ずかしかったが、いくら壮の頭脳から生まれた考えでも、いまの�仮定�だけはありえないし容認できない、と思った。 「そうなると、やはり�土橋は二人の人間を殺して自殺した�という結論におちつきそうですな」  勝が言った。 「私には、土橋さんの事情については何とも申し上げられませんけど、高岡先生が犯人だなんていうことだけはない、と思います」 「そうですか」  勝も考えるように、黙った。  美緒は、勝には悪い気がするものの、仕方なかった。  勝たちは、夕方、北海道警から、 〈検討の結果、土橋は自殺したものと思量される〉  という報告を受けたのだという。  それはまだ結論ではなかったものの、結論に近いニュアンスのもので、勝は納得しきれないものを感じた。高岡沙也夏がトリック盗用の事実を隠蔽するために�返り討ち�にした可能性はなかっただろうか、と壮の意見を聞きに来た。  それに対し、壮が、 「返り討ちというのではありませんが、彼女が土橋氏を殺した可能性はあると思います。というより、彼女は、弘田、小松崎両氏と土橋氏を合わせ、三人を殺しているのかもしれません」  と、答えたのである。  いや、彼が答え終わる前に、「そんな!」と美緒が遮ったというわけであった。 「蒸し返して申し訳ないんですが、念のために黒江さんにお訊きしていいでしょうか?」  少ししてから勝が顔を上げ、美緒と壮、交互に視線を向けながら言った。  美緒の大声の否定に一度は引いたものの、刑事として、壮の考えを気にせずにはいられなかったらしい。 「はい」  美緒は詫びの意味をこめて素直に答え、壮が曖昧にうなずいた。 「黒江さんは、高岡沙也夏が土橋だけを殺したというより三人を殺したのではないか、と言われましたが、それはどういうわけでしょう? 三人がいずれも青酸カリを飲んで死んでいる、という符合はありますが」 「ええ、僕もまずその符合に引っかかったんですが……それで考えていると、アメに仕込まれた青酸カリを飲んで死亡した小松崎さんの場合、女性が犯人なら可能かもしれない、と気づいたんです。そして、小松崎さんが高岡さんに殺されたのなら、弘田さんも土橋さんも同じ犯人に殺された、と見るのが自然だからです」 「でも、弘田さんが青森で殺されたとき、高岡先生は函館にいらしたのよ。小松崎さんが東京で殺されたときだって、そう。それに、今度の土橋さんの場合だって、彼が函館へ行くのといれかわりに青森へ来て、東京へ向かっているわ。それなのに、どうして、先生に三人を殺せたっていうの?」  美緒はまた、つい抗議する口調で言った。 「そうしたアリバイの点からは、たしかに今のところ彼女を犯人と見るのは難しい、と僕も思いますが」 「今のところ? じゃ——?」 「それらは、もしかしたら偽物かもしれないわけです」 「少なくとも、弘田さんが青森で殺されたときは、先生は私と一緒に函館にいらしたわ」 「弘田さんは、本当に青森で殺されたんでしょうか」 「えっ?」  美緒は驚いて、テキの顔を見つめた。弘田が青森以外の場所で殺されたなんてありえない、と思う。が、言われてみると、その証明はないのだった。 「物理的に可能だったかどうかの点はひとまず措《お》いて、三人を殺したとなると、動機はどうなるんでしょう?」  美緒が言葉に詰まったのを見て、勝が言った。 「すみません」  美緒は謝った。  お喋りの美緒も、多少の慎《つつし》みはわきまえているつもりである。だから、いつもなら、勝と壮が事件について話しているときは、あまり口を挟まない。が、先月十七日、自分と一緒に弘田の来るのを待っていた沙也夏が疑われたとあっては、今度ばかりは口を出さずにいられなかったのだ。 「土橋さんを殺したのは、トリック盗用の事実が表に出るのを防ぐためだったかもしれませんが、弘田さんと小松崎さんを殺した動機は違っていたんじゃないか、と思います。いえ、多少はこの件も絡《から》んでいたかもしれませんが、もっと重大な何か、別の動機があったような気がします」  勝の問いに、壮が答えた。 「ということは、高岡沙也夏が犯人だった場合、当然ながら、これまで私たちの考えてきた事件のスジは一変するというわけですね」 「ええ」 「それで、黒江さんが高岡沙也夏に疑いの目を向けるキッカケになった小松崎殺しに戻りますが、女性が犯人なら、どうして犯行が可能だったんでしょう?」  勝が、強い光のこもった目を壮に当てた。     2 「謎は、被害者がなぜアメを噛まずに飲み込んだか——犯人の側から見た場合、どうしたら青酸カリに気づかれず、相手にアメを噛まずに飲み込ませることができたのか、という点でしたね」  壮が言った。 「そうです」 「これは、通常の方法でアメを与えたのでは非常に難しいんじゃないかと思うんです。僕たちは、やわらかいアメの場合、無意識のうちに噛んでしまいますから。もちろん、たまたま結果としてうまくいった、という場合だったらありうるでしょう。しかし、殺人計画にそんな不確実性は許されません。ところが、犯人が男でなく女だった、と考えると可能なことに気づいたんです」 「分かりました」  勝が心持ち声を高め、それから、なぜか美緒の目と出会った視線を外した。  それを見て、美緒もアッと思った。  分かったのだ。 「口移しですね」  勝が、壮の顔だけを見ながら言った。  壮がうなずいた。 「なるほど。甘い言葉かたわむれの言葉をささやきながら口づけをし、自分の口から相手の口にアメを押し入れ、噛む余裕を与えずに飲み込ませたわけですね」 「ええ。そして、もし彼女がそうした方法で小松崎氏にアメを飲み込ませたのなら、そこからおのずと二人の関係が想像され、彼を殺す別の動機もあったんじゃないか、と思ったんです」  美緒は、胸にまだ多少の反発の気持ちを残しながらも、次第に壮の推理に引き込まれていった。  沙也夏が犯人なら、今まで謎だった小松崎殺しの方法が、たしかに明快に説明できる。しかも、証拠とまではいかないが、その推理を補強する事実はある。小松崎は沙也夏の死んだ夫の親友だったという話であり、少なくとも二人は十年以上も前から個人的に親しい関係にあったのだから。 「それから、いま気づいたんですが、今度の土橋氏の場合も、同じ口移しという方法をつかったかどうかはともかく、犯人が女性だという条件を利用すれば何とか殺せたのではないかと思います」  壮がさらに言った。「もし土橋氏が犯人でなかったとしたら、彼は警察の追及を受け、誰が犯人か薄々感づいていた可能性があります。ですから、何らかの理由を設けて高岡さんに函館で会いたいと言われるか、彼のほうから彼女に面会を申し入れたとすれば、飲み物などを口にする場合、十分に用心したはずです。ですが、相手が女性なら、場合によっては……」 「なるほど」  勝が、壮のぼかした話を引き取って、うなずいた。「ただ、小松崎の場合と違って、高岡沙也夏と土橋との関係は親しいものではなかったはずですから、彼女のほうから誘惑したんですな」 「そうだと思います」 「犯人が女性なら、ということで私も思い出しましたが、小松崎の死体のあった天文台の林の中には、彼の体を引きずったような跡があったんです。弘田と土橋の二人はどちらかというと、小柄で痩せていたのに、小松崎は太っていました。ですから、女の力では、車からおろした死体を担いで運ぶのが無理だったのかもしれません」 「そうですか」 「ともかく、高岡沙也夏を犯人と仮定した場合、これで殺害の方法はすべて説明がついたようです。弘田の場合は最初だし、毒入りのドリンク剤を飲ませるのは容易だったはずですから」  その通りだった。  が、だからといって、沙也夏が犯人だと証明されたわけではない。まだ、多くの謎や不可能性の壁が残っている。 「やはり、黒江さんに相談してよかった。土橋が自殺したと聞き、そうかと思いながら、何となくモヤモヤしていたんですが、その霧が晴れました」  勝が白い歯を見せて言った。  それに対し、美緒の隣りの宇宙人は、例のごとく、かすかにはにかんだような笑みを浮かべただけだった。 「もちろん、まだ高岡沙也夏を犯人と断定するわけにはいきません」  勝が表情を引きしめてつづけた。「ですから、私たちは、彼女の周辺や過去を当たり、彼女に三人を殺す動機があったかどうか——この点を、まず探ってみたいと思います。それで、もし動機があったとなったら、彼女が犯人である可能性はいっそう強まるわけですから」  それから、勝は、沙也夏を犯人と断定するまでに越えなければならない点を次の三つに整理し、ひきつづき壮と美緒の協力を要請した。 1 三人を殺害した動機の解明。 2 三人を殺害した具体的な場所の特定(できれば犯行を裏づける証拠の発見)。 3 三人の人間の殺害が物理的に可能だったことの証明。     3  美緒と壮は、二人に遠慮したのか、九段下から地下鉄東西線で三鷹の捜査本部まで帰るという勝と、喫茶店の前で別れた。  腕を組み、白山通りを水道橋駅へ向かって歩いて行った。  いつもなら、美緒は、壮の「ええ」とか「そうですね」といった張り合いのない返事を時々とがめながら、たえず彼に話しかけるところである。  しかし、今夜は、違った。一種のショックがつづいているのかもしれない。あるいは、勝からうつってしまったようなモヤモヤが額のあたりにかかり、どうにも気になって仕方がないのである。  あの高岡沙也夏が、弘田たち三人の男を殺した——。  壮の推理は正しいかもしれない、と美緒も思う。それでいながら、信じられないのである。というより、認めたくない、信じたくないという部分が、彼女の心にあるのだった。  それに、沙也夏が犯人なら、どうしたら弘田を殺すのが可能だったのだろう、とも思った。どうしたら小松崎を、土橋を、殺すことができたのだろうか?  小松崎に関しては、彼の死亡した翌日(死体の発見された日)の午後、函館から飛行機で上京したという事実しか確認されていない。美緒が壮と一緒に羽田まで迎えに行き、土橋らしい男を見かけたときである。だから、前日も東京へ来ていて朝函館へ帰り、ずっと函館の自宅にいたように見せかけた可能性はある。  しかし、弘田の場合は、壮は青森で殺されたとはかぎらないというが、「青森で知った人に会ったので連絡船を一便遅らせる」と弘田自身が小松崎に電話しているのである。そして、彼の殺された頃、沙也夏が函館にいたのは百パーセント確実なのだ。  土橋の場合だって、彼と沙也夏が行き違いに青函連絡船に乗っていたのは、乗船名簿によって確認されている。つまり、土橋が函館で殺された頃、沙也夏は青森から寝台特急「ゆうづる6号」で東京へ向かっていたのである。  このような彼女に、どうやったら弘田を、そして土橋を殺せたというのだろうか。  美緒は、その点を壮がどう考えているのか段々気になり出し、落ちつかなくなった。それに、自分が話しかけなければ、地球の果てまでだってこのまま黙って歩いて行きそうなテキが憎らしくなった。 「ねえ、何を考えているの?」  組んだ腕を引いて、美緒は言った。 「別にこれといって考えていません」  壮が答えた。 「だったら、何か話してよ」 「でも、何を話したらいいんでしょう?」 「自分で考えたら。それとも、私になんか話すことは何もないわけ」  壮が、先生に指されて答えられないでいる生徒のような顔をした。  さっきのような推理や、宇宙人の暗号を解く点にかけては抜群の才能を持っているというのに、まるで世事にはうとく、気がきかない。美緒はもう慣れっこになっているはずなのに、やはり時々は苛々し、なんで自分はこんな異星人みたいな男を好きになってしまったのだろう……と�身の不幸�を嘆くのである。 「好きだとか、愛しているとか、言うべき言葉は沢山あるでしょう」  美緒は少しいじめてやりたくなった。 「でも、そんなことは……」 「そんなことは、なーに?」 「言わなくても、分かっていると思いますから」  消えいるような声。 「分からないわ、言ってくれなきゃ」 「…………」 「言って」 「あ、もう駅ですけど」  テキが逃げた。  美緒もそれ以上深追いせずに諦めた。  本当はこの不器用な宇宙人をいじめるつもりなど、なかったのだから。 「駅でもどこでもいいわ。実はそうじゃないのよ。さっきの、高岡先生のお話。電車の中じゃ話しにくいから、ひと駅……飯田橋まで歩こう?」 「ええ」  壮がホッとしたような顔をして、うなずいた。  そこで、二人はガードをくぐり、左へ折れた。  後楽園の前を過ぎると、歩道を歩いている人など誰もいなかった。少し行って右へ入れば、時々壮と散歩する廻遊式庭園「小石川後楽園」である。  美緒は、沙也夏のアリバイについてどう考えるのか、壮に訊いた。 「勝部長さんや五十嵐さんたちの調べた結果を聞かないと、まだはっきりしたことは言えませんけど」  と、壮がことわったうえで、小松崎が東京で殺されたときは沙也夏もひそかに東京へ来ていたのではないか、と美緒と同様の考えを述べた。 「それは私も何とかなったと思うけど、弘田さんと土橋さんが殺されたときは、どうなの?」 「弘田さんの場合、彼女が犯人なら、函館で殺されたという以外に考えられません」 「結論はそうかもしれないけど、問題はそれが可能だったかどうかよ。とにかく、あの日のことを簡単に整理してみるわ、いーい?」 「ええ」 「弘田さんは上野を朝六時に出る新幹線に乗り、盛岡で特急に乗り換えて、青森にちょうどお昼頃に着いたと思われる。それに連絡している青函連絡船はたしか十二時十分だと思ったから、それに乗っていれば、午後四時頃には函館に着いていたはずだった。  ところが、彼は、一時四十五分頃東京の小松崎さんに電話して、青森で知った人に会ったので一便遅れる、つまり三時の連絡船に乗って函館に七時頃着くから、高岡先生に連絡しておいてほしい、と言った。このとき、弘田さんは、誰に会ったのかと小松崎さんに訊かれ、�小松崎さんも知っている人だ�と、答えている。  一方、私は同じ日の午後五時に函館空港に着き、高岡先生のお宅に六時頃伺っている。以後、九時半過ぎまで先生と一緒にいた。  弘田さんの死体が青森の夏泊半島で発見されたのは翌日の午後四時過ぎで、死亡推定時刻は前日の夕方から夜にかけてだった。  こんなところかしら。……あ、それから、私が函館に泊まった翌朝、十時十分の連絡船に乗る前に、高岡先生のお宅に電話すると、先生はたしかにいらしたわ」 「そうですね。ですから、もし高岡さんが犯人なら、弘田さんは予定通り十二時十分の青函連絡船に乗り、四時頃函館に着いていた、ということです」 「じゃ、小松崎さんへの電話は、嘘だったというわけね? そして、それは連絡船の上からかけた?」 「ええ」 「でも、弘田さんはどうしてそんな嘘をついたのかしら? いえ、青森県警の調べでは、十二時十分の連絡船・乗船名簿には、弘田さんの名はなかったはずよ」 「乗ったのに乗らなかったようにみせるのは簡単です。別の誰かの名なり、でたらめの名なりを書いた用紙を出しておけばいいんですから。五十嵐さんたちも、名簿の一人一人に当たって確認はしていないはずですので、これからそれをすれば、少なくとも一人、その便に乗っていないか所在不明の人が見つかると思います。  それから、弘田さんの嘘ですが、これは高岡さんが何かうまい口実をつかったんだと思います。もちろん、高岡さんに電話したら不在なので、小松崎さんから伝えておいてくれ、そう弘田さんに言わせたのも、弘田さんが青森で人に会ったという偽の�事実�を小松崎さんに知らせておくための彼女の計画だと思います」(作者註・弘田と小松崎の電話のやり取りをプロローグでもう一度お確かめ下さい) 「うまい口実って、たとえばどんな?」 「そこまでは想像がつきませんが、高岡さんでしたら、若い編集者の弘田さんをかなり自由に操れたんじゃないでしょうか」 「たしかにそうね。じゃ、そこまで、あなたの考えが正しかったとすると、私が先生のお宅を訪ねたとき、すでに弘田さんは殺されていたというわけね?」 「そうです。たぶん、車のトランクにでも入れてあったんだと思います」 「それで、私と一緒に、彼の来るのを待っているふりをしていた?」 「ええ。そして、美緒さんと別れた九時半過ぎ、フェリーか連絡船で死体を青森まで運んで夏泊半島に捨て、翌朝の美緒さんの電話までに自宅に帰っていたんだと思います。つまり、彼女は、車と一緒に深夜、津軽海峡を往復したんです。美緒さんに朝十時頃まで寝ていると言っておいたのも、それまでに電話をかけられたら困るからでしょう」 「分かったわ」  美緒は、いつもながらの宇宙人の頭脳に感心して、言った。 「ただ、今のはみな僕の単なる推理にすぎませんから、夜九時半から翌朝十時までに函館から青森まで行ってこられるフェリーなり連絡船があったかどうか、あったとしたら、そこに高岡さんらしい人物が乗っていたかどうか、弘田さんが乗らなかったと電話で言っている青森発十二時十分の青函連絡船・乗船名簿に彼と思われるプラス・ワンがあるかどうか——こういった点を確かめる必要があります。それに、もちろん高岡さんが弘田さんを都合よく操った方法、口実も解明しなければなりません」  美緒たちはいつの間にか、飯田橋の大きな五叉路まで来ていた。  左へ行けば、駅であった。  しかし、まだ土橋殺しのアリバイが残っている。  美緒がそう言うと、 「これは、弘田さん殺しの場合とは逆に、高岡さんは、五時に函館を出る青函連絡船に乗らなかったのに乗ったようにみせるトリックをつかったんだと思います」  と、壮が簡単に言った。「おそらく、乗船名簿を乗船改札口の箱に入れて乗ったようにみせ、実際は乗らなかったんです。この前の美緒さんの話では、乗船改札口には駅員がいたりいなかったりということでしたね、それなら、容易にこの擬装はできたんじゃないでしょうか。とすれば、あとは、土橋さんを殺して立待岬に捨てた後、別の連絡船に偽名で乗ればよかったわけです」 「土橋さんが函館に着いたのは夜の九時五分前なんだから、それから彼を殺して立待岬まで運んで捨てたとしたら、深夜の連絡船にしか乗れないわよ。それで、上野に朝早く、七時前に着けるかしら?」 「無理ですね」 「じゃ……」 「今朝、高岡さんは、午前十時ちょっと前に美緒さんの会社に顔を見せたんじゃなかったですか? 叔母さんの家へ行ったが留守だった、と言って」  これは、勝に会う前、美緒が話してあったのである。 「叔母さんの家へ行ったというのは嘘だった、というわけね」 「そうです。ですから、彼女は今朝、九時三、四十分に上野へ着けばよかったわけです」 「それでも、どうかしら?」 「高岡さんが犯人であるかぎり、着けたはずですが、時刻表を見なければ何とも言えません」 「そうね。じゃ、これは後でいいわ」  美緒は言った。  沙也夏を犯人と断定するには、まだ大きな壁があった。が、壮と話し、また一歩そこに近づいたような気がした。  その夜、美緒は、帰宅するとすぐ時刻表を調べてみた。  まず弘田殺しについて——  夜九時半以後に函館から青森へ渡るフェリーは、二十二時五分(十時五分)と二十三時三十五分(十一時三十五分)にあった。  弘田が殺された晩、美緒が函館駅前で沙也夏と別れたのは九時半過ぎの四十分頃。フェリーターミナルは、駅から元町とは反対方向に車で十五分ほど行った七重浜という所にあるから、すぐにタクシーで家へ帰って出なおしたとしても、十時五分の便に乗るのは無理だろう。とすれば、十一時三十五分の便に乗って、青森——フェリーターミナルはやはり駅から車で十分ほどの所にある——に着くのが、翌午前三時十五分。夏泊半島の茂浦まで往復一時間四、五十分みれば悠々なので、駅あるいはフェリーターミナルへ帰ってくるのが、五時前後。おあつらえ向きの青森港を朝五時二十五分に出る連絡船二十一便があり、それに乗れば、函館着が九時十五分。九時半には家へ帰りつけ、美緒の電話に間に合う。  つまり、弘田殺しは時間的には可能だと分かった。  次は土橋殺しについて——  午後五時の後の上りの青函連絡船は、函館十九時四十五分(七時四十五分)発の二十四便、翌午前○時四十分発の二便とつづいている。  土橋が函館に着いたのが夜九時五分前だから、七時四十五分の二十四便は問題外。とすると、弘田殺しのときに乗ったと思われる十一時三十五分のフェリーか、午前○時四十分の連絡船二便に乗ったとして、青森へ着くのは午前三時十五分か四時三十分。  最も早い四時五十二分の特急「はつかり2号」で盛岡まで行き、盛岡を七時二十九分に出る新幹線「やまびこ2号」に乗り換えたとして、上野着は午前十時十四分。  函館、青森、三沢などから東京へ行く飛行機は、いずれも羽田着が午前十時過ぎ。  これでは、逆立ちしたって十時前に美緒の会社へ現われることはできない。  つまり、こちらは、不可能と出た。  美緒は壮に電話をかけ、調べた結果を話した。  すると、彼も時刻表に当たったらしく、美緒の話を聞いてから、 「ですが——」  と、土橋殺しに関して異を唱えた。「盛岡をもう一本早い新幹線、六時十三分発の『やまびこ30号』に乗れば、上野に九時三十四分に着き、十時前に神田まで行けます」 「でも、そんなの乗れるわけないじゃない」  美緒は抗議の声を上げた。  しかし、テキは平然と、 「美緒さんの言った深夜十一時三十五分のフェリーで青森へ渡り、盛岡まで車を飛ばせば間に合います。フェリーの青森着が午前三時十五分。フェリーターミナルから東北自動車道の青森インターまで二十分とみて、三時三十五分。盛岡インターまで一時間五十分から二時間だそうですから、だいたい五時半。高速を出て駅まで十分ほどのようですので、五時四十分。三十分の余裕がありますから、かなりの狂いがあったとしても、六時十三分の始発新幹線に乗れたはずです」     4  翌三十日、寺本は五十嵐とともにふたたび函館へ行くことになり、午前十時十分の青函連絡船に乗った。  勝から、 〈高岡沙也夏こそ、弘田、小松崎、土橋の三人を殺した犯人ではないか〉  という推理を聞いたのは、今朝九時近くだった。  昨夜、勝は黒江壮と笹谷美緒に会い、黒江壮に指摘されたのだという。また、その後、しばらくして壮から電話があり、彼が高岡沙也夏のアリバイをほぼ破った結果も聞いたらしい。そこで、勝の話は真木田に伝えられ、真木田が捜査幹部たちと協議した結果、警視庁として、その推理のもとに再捜査する方針を正式に決めたのだった。  この警視庁からの連絡は、寺本たち青森県警の刑事たちを驚かせた。  とはいえ、寺本はその話を聞き、昨日からずっと胸の奥にわだかまっていたこだわりの消える思いがした。 〈加害者だと思っていた土橋が、実は被害者だった——〉  この逆転には、少なからず面くらったものの、よく考えてみると、高岡沙也夏の動機さえはっきりすれば、その解釈のほうがはるかにすっきりする。小松崎をアメで殺した方法の謎は、犯人が女だったと仮定すれば、たしかに、鮮やかに説明できた。また、東京の便利屋に、脅迫状の投函を依頼する手紙とその脅迫状を送ったのも、土橋に疑いを向けさせるために、彼女が青森まで来て工作したと考えれば、矛盾しない。  ——それで、私たちは当面、高岡沙也夏の犯行動機の解明に全力を注ぎたいと考えています。  電話に出た五十嵐に、勝はそう言ったらしい。  ——そこで、五十嵐さんたちには、まず高岡沙也夏に会って話を聞き、彼女の犯行の可能性の確認、さらにはその証拠の収集といった作業をしていただけないでしょうか。  そういったわけで、寺本たちは今、高岡沙也夏に会うために、函館へ向かっているのだった。  彼らが函館に着いたのは、午後二時過ぎである。  港湾署には後で寄る予定にして、二人は市電に乗って末広町まで行き、真っ直ぐ高岡沙也夏の家へ向かった。 「帰っているでしょうか?」  坂道を登りながら、寺本は五十嵐に話しかけた。 「今朝、勝部長たづが彼女の泊まっでえるホデルを聞いで訪ねだら、すでにチェッグアウドした後だったどゆうがら、どごにも寄らずに飛行機さ乗ってれば帰《けえ》ってえるど思うが」  当然ながら、勝たちは自分たちで高岡沙也夏に当たろうとしたらしい。だが、つかまらず、それで、寺本たちに彼女からの事情聴取を依頼してきたのであった。 「これで、帰っていれば、アリバイ作りのために上京しただけで、たいした用事などなかったんですかね」 「そんがもしれん」  二人は彼女の家の前に着いた。  ガス灯風の門灯が付いた、洋風のしゃれた家だ。  振り返ると、函館の街と函館港が一望だった。今日も良い天気である。  寺本が、インターホンのチャイムを鳴らした。 「はい」  と、すぐに返事があった。  寺本は、五十嵐と顔を見合わせてうなずき合い、弘田の葬儀のときに会った青森県警の者だと名乗った。  ドアが開けられ、高岡沙也夏が顔を覗かせた。怪訝そうな表情をしている。いや、もし彼女が犯人なら、そう装っている。  長めの茶色いスカートをはき、白いセーターを着ていた。前に会ったときも感じたが、目、鼻、口といずれも大きく、個性の強そうな顔をしていた。誰かに似ていると思ったら、ソフィア・ローレンにちょっと似ているのである。 「まだ弘田さんのことで……?」  彼女が訊いた。 「それもありますが、別の件でも参考までにお話を伺いたいと思いまして」  寺本が答え、 「それではどうぞ」  と、二人は応接間に招じ入れられた。  さほど広くはないが、出窓の付いた明るい部屋だった。  沙也夏は一度出て行くと、紅茶をいれてすぐに戻ってきた。  この前と同じく、後頭部を刈り上げた男のような短い髪をしていた。寺本たちが彼女の著書に載っている写真で見た顔は、いずれも肩の下まで垂れた長い髪をしていたので、弘田の葬儀で会ったとき、一瞬意外に感じたのを覚えている。 「それで、どういうお話でしょうか?」  沙也夏は前に腰をおろし、寺本たちに紅茶を勧めてから、言った。  五十嵐が、壁に掛かった抽象画の�意味�などを訊き、なかなか本題に入らないので、待ちきれなくなったらしい。 「あ、えや、高岡さんはどごがへ出がげられでえだどが?」  五十嵐が、雑談のつづきのように言いながら、彼女の顔に視線を当てた。     5 「ええ、午前中、東京から帰ったところですわ」  沙也夏が、五十嵐の質問の意図をとらえきれないらしく、かすかに不安の色を目の奥に漂わせて答えた。 「お仕事《すごど》で?」 「編集者の方と打ち合わせをしたり、体調を崩しているという、昔お世話になった叔母を訪ねたりしたんですわ」 「出がげられだのは、えづでしょう?」 「あの、何か私の行動にご不審でも……?」  いかにも解《げ》せない、といった顔をして逆に訊き返した。 「そうゆうわげではなえんですが、一応、参考までにお聞ぎでぎだらど」 「何だかよく分かりませんけど、かまいませんわ。出かけたのは、おとといの夕方です。五時の青函連絡船に乗ったんです」  沙也夏は、五十嵐に問われるまま、青森で連絡船に接続している九時十九分発の寝台特急「ゆうづる6号」に乗り、上野には翌日(昨日)の午前六時四十分に着いた、と述べた。それから大船に一人で住んでいる叔母の家へ行き、叔母が留守だったので、十時前に東京へ戻り、神田の清新社を訪ねた——。  それらは、笹谷美緒から勝が聞いて、知らせてきたとおりであった。 「叔母さんには、電話をかげでゆがながっだんですが?」  さらに五十嵐が訊いた。 「ええ。叔母は勤めていませんし、たいてい家にいますから」 「ですが、そのどぎは、会えながっだわげですな?」 「夜、もう一度訪ねて会いましたわ。朝は病院へ行っていたんだそうです」  沙也夏は叔母の病院行きの予定を知っていたにちがいない、と寺本は思った。それで、アリバイ作りに利用したのだろう。つまり、彼女は昨日の朝、大船へなど行っていない。黒江壮が考えたように、深夜のフェリーで津軽海峡を渡って盛岡まで車を飛ばし、「やまびこ30号」で午前九時三十四分、上野に着いたのだ。 「分がりました」  五十嵐がひとまず退《ひ》き、「とごろで、失礼《しづれい》ですが、おどどえの夕方たすかに五時の連絡船に乗った証拠どええますか、そんなものはなえでしょうか?」 「証拠? いったい何なんですの? 私が何か疑われているんですの?」  沙也夏がキッとした顔でにらみ、声の調子を高めた。 「えや、最初に申し上げだように、参考までに」 「どういうわけかしら?」 「高岡さんは、土橋滋どゆう男をご存知ですね?」 「土橋さん……ですか?」  沙也夏がちょっと首をかしげ、考える仕種《しぐさ》をしていたが、「存知ませんけど」 「こごさ、訪ねできてえると思えますが」  半分は五十嵐のハッタリである。が、半分は違う。昨日のこのあたりの聞き込みにより、一昨日の夜に土橋を見た者はなかったが、二、三ヵ月前なら彼に似た男が高岡家の門の前に立っているのを見た、という証言が得られていたのだ。  沙也夏は、どう答えるべきか迷っているようだった。警察が土橋の訪問を押さえているのに、知らないと言ったら、まずい具合になるからだろう。 「えががですが、青森さ住んでえる小説家志望の高校の先生ですが」  五十嵐が、追及した。 「だったら、あの方かしら?」  沙也夏が選択肢の一方を引いたらしい。たった今思い出したというように、首をかしげたまま言った。 「しばらく前に、二、三度見えたことがありますわ。そういえば、土橋さんとおっしゃったような気がします」 「思え出しでくれましだが。で、二度ですが? 三度ですが?」 「……三度だったかしら」 「彼は、何をしにこごさ来だんですが?」 「私のファンだとおっしゃって……。それで、自分も小説を書いているから、読んでもらえないか、と」 「では、彼の原稿をあずがられだ?」 「私はそういうお話はお引き受けできない、とお断わりしました」 「それなのに、三度も見えだわげですな?」 「最初のときは、ただ私のファンだとだけおっしゃったんです。それでお会いしたら、もう一度見えて、三度目に原稿を持ってこられたんです」 「それは、えづ頃の話ですが?」 「最初が五月の中頃で、二度目と三度目は七月頃じゃなかったかと思います。……あの、で、刑事さんたちがいらしたということは、その土橋さんが、私について何か?」 「えや、彼はおどどえ、この函館で死んだんです。私たづは、殺されだと見でえますが」 「殺されたんですか?」  沙也夏が、いかにも驚いたといったように、大きな目をさらに丸くして五十嵐を見つめた。 「どうやら、高岡さんを訪ねで函館さ来たよんです」 「でも、おとといでしたら、私はお会いしていませんわ」  彼女は、土橋が函館のどこでどのように殺されたのか、尋ねなかった。殺されたと聞けば、たいていの者は真っ先にそうした点が気になり、尋ねるものである。  この事実は、寺本に、彼女に対する疑いをいっそう強めさせた。犯人なら、無意識のうちに立待岬と青酸カリを連想し、土橋の死について何一つ疑問が生じなかったとしても不思議はない。 「いつ頃、見えたのかしら?」  彼女が、また首をかしげた。  その仕種も、どことなく、自分のアリバイに話をもっていくための演技くさい。 「青森を夕方五時五分に出る連絡船さ乗って、函館さは八時五十五分、約九時に着いだど考えられます」  五十嵐が言った。 「あら、それじゃ、無理ですわ」  沙也夏が待っていたように、明るい声を出した。「初めに申しあげたように、私はおとといの夕方、函館を五時に出る連絡船に乗ったんですもの。……でも、私を訪ねていらしたらしいということで、私をお疑いだったわけですね」 「疑《うだが》えとゆうわげじゃありませんが、一応参考までに。それで、さっぎの質問ですが、えががでしょう、その連絡船まだは青森を九時十七分に出る『ゆうづる6号』に乗られだ証拠、どえっだものは、ありませんが?」 「連絡船だったら、乗船名簿がありますわ。私はグリーン船室だったから、緑色の紙にきちんと住所氏名を書いて、駅員さんに渡しましたわ。調べてくだされば、筆跡も私だと分かっていただけると思いますけど」 「それは、調べさせでえだだぎます。ですが、ほがになえでしょうが?」 「乗船名簿じゃ、だめなんですの?」 「乗船名簿だげなら、乗らなぐても出せますから。申すわげありませんが、よぐ考えでえだだげませんが」 「困ったわ。だいたい、そんな証拠のある人なんているかしら。近くに乗っていた方か、ゆうづるの場合は車掌さんが覚えてくださっていれば別ですけど」  寺本は、黒江壮の考えたように、沙也夏の土橋殺しのアリバイはこれで崩れた、と思った。  あとは、小松崎が東京で殺されたときの所在を訊き、これが曖昧《あいまい》なら、彼女には、少なくとも三人の殺害に関してのアリバイはすべてなくなる。  五十嵐もおそらく同じように考えたのだろう、質問をつづけようと何か言いかけたときだった。 「あるかもしれませんわ」  いかにも困ったといった顔付きで考えていた沙也夏が、突然、寺本と五十嵐のほうへ光る目を上げた。     6 「ある?」  五十嵐が訊き返した。 「ただ、その方が私を覚えていてくだされば、ですけど」 「どうゆうごどでしょう?」 「連絡船はグリーン船室でも自由席と指定席があるんです。そのうち、私は自由席だったんですけど、乗船して、適当な席を探しているとき、七十歳前後のご夫婦にぶつかってしまい、サングラスを落としてしまったんです。ただそれだけなんですが、私はお二人から一つおいた前の窓際の席にかけましたから、もしかしたら、その方たちが、私がずっと乗っていたことを証言してくださるんじゃないか、と思ったんです。私の服装は、黒のワンピースの上にモノトーンの千鳥格子のジャケットです」 「グリーンの自由席《ずゆうせぎ》にも、普通席とおなずように、ジュウタン席があるはずですが、そづらではなえほうですな?」 「そうです」 「その老夫婦の名前や住所は分がりませんが?」 「ええ。ぶつかったとき、私がごめんなさいと謝ると、相手の方も大丈夫ですか、と言われただけで、それきりですから。でも、グリーン船室に乗られた方で、同じ苗字の七十歳ぐらいの男女、という条件に合う方がそうおられたとも思えませんけど」 「では、四時間の船旅の途中で何が変わったごど、気のつえだごどはありませんが?」 「別にありません。私はだいたい本を読むか寝ておりましたから」 「隣りさ座った方《かだ》は、どんな人でしょう?」 「すいていましたので、誰もいませんでしたわ。二つずつペアになった椅子が七、八十人分四列に並んでいるんですけど、みなさんジュウタンのほうへ行かれたのか、窓際の席の他は、ぱらぱらだったんです。  それから、ゆうづる6号は、たしか七号車の真ん中あたり、一番下段のベッドでしたから、車掌さんに一応聞いてみてください。検札は、青森を出て間もなくでしたが、私はカーテンの陰から気なしに切符を出したらしく、何歳ぐらいのどういう方だったか記憶にないんですけど」 「分がりました」  五十嵐が言った。  声から張りが消えていた。顔も、厄介な具合になったな、という渋い表情に変わっている。  寺本も、もし沙也夏の供述が事実ならどうなるのかと思い、ショックを感じていた。沙也夏によく似た共犯者がいないかぎり、彼女はシロという結論になってしまい、捜査は振り出しに戻らなければならない。  いや、振り出しといっても、寺本も五十嵐ももはや、土橋の死を自殺と見ることはできなくなっていた。  としたら、土橋は誰に殺され、弘田と小松崎は誰に殺されたのか。  五十嵐が、最後に、今月二日の夜の所在について、沙也夏に質《ただ》した。 「二日といいますと、小松崎さんが亡くなられたときですわね。私は、彼の事件でも疑われているのかしら? でも、その日はずっと函館におりましたわ。残念ながら、一ヵ月も前なので、何をしていたのかまでは、覚えていませんけど」  沙也夏が余裕の笑みを浮かべて答えた。  少なくとも、小松崎殺しに関してだけはアリバイがない、ということである。  しかし、土橋殺しに関するアリバイが絶対なら、それを聞いても、寺本たちにはどうする術《すべ》もなかった。  寺本と五十嵐は、髪を短くしてからの沙也夏の写真を借り、車の名とナンバーを聞いて彼女の家を辞した。  港湾署に挨拶してから、函館駅へ行った。  一昨日午後五時に出た連絡船二十二便グリーン船室に、七十歳前後の夫婦が乗っていなかったかどうか、調べてくれるよう頼んだのである。  そして、駅員がそれを調べてくれている間に、桟橋にある連絡船の自動車航送取扱い所へ回り、さらに駅からタクシーで十二、三分かかる七重浜のフェリーターミナルまで行き、弘田が殺された先月十七日の夜と、土橋の殺された一昨日(今月二十八日)の夜に関する聞き込みをした。  弘田の殺された晩、沙也夏は午後九時半過ぎまで笹谷美緒と一緒に函館駅前の「江差」という小料理屋にいて、翌朝十時近くに美緒が電話したとき自宅にいた。また、昨日の朝は、十時前に東京神田の清新社に現われている。  これらの事実から、沙也夏が九月十七日の晩弘田の死体を青森の夏泊半島まで運んで捨てたとしたら、午後十一時三十五分のフェリーで青森へ行き、翌朝五時二十五分に青森を出る連絡船で函館へ戻ったとしか考えられない。また、一昨日も、彼女が土橋を殺したのだとしたら、やはり夜十一時三十五分のフェリーで青森へ渡り、盛岡まで車を飛ばして始発の新幹線に乗り、東京へ向かったとしか考えられない。  黒江壮と同様、寺本たちもそう推理し、連絡船とフェリー会社の社員たちに沙也夏の写真を見せ、車両航送申込書を調べてもらい——連絡船の場合は青森駅にも問い合わせてもらい——、話を聞いたのである。  だが、残念ながら、彼女の車は寺本たちの予想したフェリーにも連絡船にも乗った形跡はなく、係員も覚えていなかった。  フェリーも連絡船も、乗船に際しては、原則として車検証の提示が必要だし、申込み用紙に車のナンバーを記入しなければならない。  とはいえ、問題は料金に関して不正がなければいいので、車の長さ、大きささえはっきりしていれば、車検証の提示がなくても受けつけられるし、ナンバーの確認もそれほど厳しいものではないらしい。フェリー会社の係員の話では、間違えてナンバーを記入する運転手も少なくなく、一々めくじらを立ててとがめたりはしない、という。そのため、数字を一つ二つ変えた出鱈目のナンバーを記入して乗り込めた可能性もないではない。  しかし、事は殺人に絡んだアリバイ作りである。出鱈目《でたらめ》のナンバーを申告して、万一とがめられたら、係員の記憶に残り、危険が大きい。犯人としては、�そうならない�という蓋然性《がいぜんせい》に賭ける勇気は、おそらくなかったであろう。  それでも、沢山の車両が移動するフェリーの場合は、比較的安全な乗船方法があったと考えてみよう。ところが、連絡船の航送は一便十二台から二十台とかぎられているうえ、シーズンを除くと一、二台といった場合が少なくないらしい。事実、先月十八日の朝五時二十五分の下り二十一便には、二台の乗用車しか積載されておらず、ナンバーのごまかしは不可能だったと考えざるをえない。  となると、たとえ弘田の死体を夏泊まで運んで捨てることができたとしても、�函館へ帰れなかった�という結果になってしまうのだった。なぜなら、青森から函館へ来る朝のフェリーは七時二十分までなく、それでは函館へ着くのが十一時二十分になってしまうからだ。 「どうにもなりませんね。たとえ函館から青森へ行くのは何とかなったと仮定しても、弘田殺しの場合、絶対に帰れないんですから」  駅へ戻るためにバス停へ向かって歩きながら、寺本は話しかけた。  しかし、五十嵐はちょっと顎を引いただけで、何も答えなかった。 「高岡沙也夏は、犯人じゃないんでしょうか?」 「きみはどう思うんだね?」  今度はいきなり逆に訊き返された。 「正直いって、よく分からなくなりました。おとといの夕方、五時の連絡船に乗っていたというのもかなり固いようですし」 「うむ」  五十嵐が、肯定なのか否定なのか分からない返事をして、また黙った。  彼も判断に迷っているようだった。     7  一昨日午後五時に函館を出た連絡船二十二便には、沙也夏の話した老夫婦に該当する男女一組がたしかに乗っていた。グリーンの乗船名簿に、青森市中央町に住む千島幸一(七十三歳)とタミエ(六十九歳)という名があったのである。  函館駅へ戻った寺本と五十嵐は、そうした事実を聞くと、昨日と同じその二十二便の連絡船に乗るため、切符を買ってあらためて改札口を入った。  長い高架通路を連絡船乗り場のほうへ歩いて行くと、突き当たり奥にある第二乗船口の乗船改札が始まったところらしく、待合室から出てきた人々がぞろぞろ入って行くのが見えた。  改札といっても、箱が二つ置かれた通路の途中に駅員が一人立っているだけで、切符を見せるわけではない。船に乗る者は、乗船名簿をその駅員に渡すか箱へ入れて、通るのである。  寺本と五十嵐は、乗船名簿を書いてから、五分ほど立ってその様子を眺めていた。その間に、駅員は二度箱から離れたし、いても、送迎桟橋が中にあるので、出入りは自由だった。  駅員が戻ったところで、五十嵐が高岡沙也夏の写真を見せ、一昨日のこの便の乗船改札のときこの女を見かけなかったか、と念のために尋ねた。  しかし、無駄であった。  二人は名簿を渡し、船のほうへ歩いて行った。  ゲートを渡って乗船したところには船員服の乗務員が立ち、手にしたカウンターでカチカチと乗客の人数を数えていた。  五十嵐が彼にも沙也夏の写真を見せた。  乗務員は、一昨日の二十二便は違う船なので分からない、見送り人は原則として乗船できない決まりになっているが、ことわれば乗せる、と答えた。  寺本たちは礼を言って、中へ入った。  沙也夏が犯人なら、一度船に乗って老夫婦に印象づけ、すぐに降りたとしか考えられない。そして、乗船改札口の様子やいまの乗務員の話から判断して、それは容易《たやす》かったはずだ、と分かった。  ただ、問題は、これから青森へ帰って訪ねる千島という老夫婦がどのように言うか、であった。  青森に着いたのは九時五分前である。人を訪ねるには少し遅い時刻だったが、寺本たちは、千島幸一に電話し、了解を得てから市役所裏にある彼の家へ向かった。  千島夫婦はすぐに応接間へ招じ入れ、夫人が茶を運んできた。  二人暮らしで、一昨日は札幌に住んでいる長男一家を訪ねた帰りだったのだという。 「この方でしたら覚えています」  五十嵐が沙也夏の写真を見せ、服装を説明すると、夫婦はそろって答え、沙也夏の話したのと同じサングラスの件を話した。 「でしが、それは、船の出る前ですね?」  五十嵐が言った。 「乗ってすぐだったから、そうですね」 「この女は、それがらどうしましたが?」 「私らの前の前の席に座ったね」  夫が言い、妻がうなずいた。 「そごにずっと座ってえましたが?」 「すぐトイレにでも立ったようでしたが、十分ほどして戻ってきました。あと、ずっとといわれるとはっきりしませんが、青森で降りるときはおりましたね」 「この女に、間違《まづが》えありませんが?」 「間違いありません。あ、降りるとき、おまえは挨拶したんじゃなかったか?」 「しましたわ。でも、その方のほうは気がつかなかったらしく、黙って行ってしまいましたけど」  五十嵐がもう一度写真を見せ、沙也夏の特徴を説明して念を押した。  が、二人とも、「自分たちはそれほど惚《ぼ》けていない」と冗談口調ながらも少し気を悪くしたような顔をして言い、間違いない、と繰り返した。  千島家を辞すと、寺本は疲れを感じた。  弘田につづいて、高岡沙也夏には土橋も殺せなかった、という結果が出たのである。  これでは、彼女を犯人と考えるのは無理であった。  二人は、駅まで迎えにきていたパトカーで浅虫の青森東署まで戻った。 「ご苦労さん」  谷山が労をねぎらってくれたが、寺本は顔を強張《こわば》らせたまま、小さく頭をさげただけだった。 「たった今、警視庁から電話があった」  谷山がつづけた。 「何ですがね?」  五十嵐も疲れたような、あまり気のない声で訊いた。 「イガさんたちの函館の聞き込み結果を夕方知らせておいたんだが、弘田殺しは可能じゃないか、というんだ」  寺本たちは、連絡船に乗る前、谷山に一報を入れておいたのである。 「可能?」 「可能といっても、イガさんたちの考えたように、怪しまれずにフェリーにうまく乗れる方法があったとしての話なんだが。また勝部長が黒江という男に話したところ、黒江が、こう言ったらしい」  谷山が一度言葉を切り、「高岡沙也夏は、自分の車ではなくレンタカー、それも道内で借りたのではなく、本州のどこかで前もって借りておいたレンタカーを利用したんじゃないか。それを青森で乗り捨てたんじゃないか、とね。それなら、もし弘田の死体を夏泊まで運べれば、帰りは身一つ、偽名で朝五時二十五分に出る連絡船に乗ればよかったはずだ……」  寺本は、谷山の顔を食いいるように見つめていた。  では、やはり、高岡沙也夏は犯人なのだろうか。土橋を殺すことも、可能だったのだろうか。  しかし、一昨日午後五時の上り青函連絡船に乗っていた彼女が、同じ時刻、下りの連絡船に乗っていた彼をどうやって——?  第九章 完璧さの陥穽《かんせい》     1  勝たち警視庁の捜査本部は、まず、小松崎の妻、同僚、出版社関係の知人、学生時代の友人などに当たり、彼と高岡沙也夏の間に特別の関係がなかったかどうか、を調べていった。  だが、妻は何も知らなかったし、同僚や知人は、沙也夏の夫の親友だったという事情から親しくしていたようだが、男女の関係があったかどうかは分からない、と答えた。学生時代の友人たちにしても、沙也夏の夫が死んだ後、小松崎が最も親身に相談に乗ってやっていたが、現在の関係は知らない、という。  次いで、勝たちは、沙也夏の知人、友人たちを探り出し、話を聞いた。しかし、彼らも、小松崎と彼女の間に男女の関係があったかどうかといった点については、誰も知らなかった。  つまり、沙也夏と小松崎の間にそうした関係ができていたなんて信じられない、というのが、二人の関係者の大方の声であった。  沙也夏に関して、彼らから聞いた話を総合すると、  ——高岡沙也夏というのは筆名で、本名は岡本邦子。東京の出身だが、商社マンだった父親が国内、外国と転勤が多かったため、高校時代は神奈川県大船市の叔母の家に寄宿して学校へ通い、東京の女子大へ入学すると、一人でアパート住まいを始めた。  無口だが、頭が良く、非常に負けん気の強い文学少女で、中学時代から小説を書き、将来は必ず小説家になってみせる、と親しい友人にもらしていた。  沙也夏が、小松崎の友人でS大学文学部の大学院生だった星昭芳と知り合ったのは、大学二年になった四月である。入学と同時に文学サークルに属していたのだが、そこへチューターとして招かれてきたのが、サークル責任者の友人でフロベールの研究をしているという星であった。  二人の交際は、星が沙也夏にひと目惚れして始まったようだ。研究者といっても、星はまだ二十四歳で、大学院に進学したばかりだった。が、女子大の文学仲間とは段違いの知識を持った彼に、沙也夏は初め尊敬の念を抱き、次第にそれが恋愛感情になっていったらしい。  こうして、二人は激しく愛し合うようになり、わずか半年後の秋、双方の親の反対を押し切って結婚。星の指導教官である助教授がちょうどフランスへ留学したため、千葉県松戸市にある彼の家を借りて、新婚生活を始めた。生活費は、双方の親からの仕送りと星の奨学金とアルバイト収入でまかない、友人たちから見ると、相思相愛のなんとも羨《うらや》ましいカップルだった、という。  しかし、それも、翌年の暮頃から少しずつ暗雲がたちこめ始めた。アルバイトに時間を取られてか、星の修士論文が芳《かんば》しくなく、予定していた講師の就職口がだめになり、博士課程《ドクターコース》への進学も無理と決まったのだ。  もっとも、それで二人の愛は変わったわけではない。翌春、星は修士課程を終了すると、どこかの大学にポストの空《あ》きが出るのを待ちながら家庭教師や翻訳のアルバイトに頼る生活を始め、沙也夏はプロの小説家を目差して、いっそう執筆にいそしむようになった。  二人の結婚生活に終止符が打たれたのは、さらにその翌年の二月、沙也夏の卒業間際である。星は相変わらず勤め口がなく、半年ほど前から生活が荒れ、アルコールに溺れるようになっていた。そのアルコールが、間接的に彼の命を奪ったのである。死因は急性心不全だが、泥酔して帰った深夜、一人でトイレに立ち、廊下で寝こんでしまったのだ。二人の住んでいた助教授の家は古い木造家屋だったため、廊下は隙間風が通り、屋外と同じぐらいに気温が下がったらしい。しかも、運悪く、その冬一番に冷えこんだ夜。だから、明け方、沙也夏が傍らに夫の姿がないのに気づいて捜しに行ったときは、すでに死んでいたのだった。  星の通夜や葬儀のときの沙也夏の悲嘆ぶり、憔悴ぶりは、辛くて、傍《はた》から見ていられないほどだった、という。  最愛の夫が死んで悲しんでいるというだけでなく、自分が眠り込みさえしなければ、自分がもう少し早く夫のいないのに気がついてさえいれば……と自分を責めつづけていたのである。星の両親には、「あんたと一緒にならなかったら、息子はきちんとした職につき、死ぬこともなかった、息子はあんたが殺したようなものだ」と言われ、彼女自身もそのとおりだと認め、反論しなかったらしい。  こうした事情から、彼女は星に対する愛と贖罪《しよくざい》のため、ずっと操《みさお》を守り通してきたのではないか、というのであった。  勝が三鷹中央署の若い刑事・白畑と組んで聞き込みをつづけ、多少注目すべき話にぶつかったのは、文化の日も過ぎた十一月四日(水曜日)になってからであった。  これまで聞いていた星と沙也夏の間は、熱烈恋愛の末の結婚、相思相愛、不幸な結末、そして沙也夏の貞節……といった話ばかりだったのに、それに異議を挟むようなエピソードを語った者がいたのだ。  それは、二人が二年半ほど暮らした、松戸市の家の隣りに住んでいた主婦である。  勝たちは、星と沙也夏の結婚生活に、沙也夏が小松崎を殺した動機の謎を解くカギが潜んでいるとは思わなかった。それで、沙也夏と小松崎それぞれの交友関係の聞き込みに全力を注ぎ、星と彼女の関係まで手を伸ばす余裕がなかった。ところが、目ぼしい関係者にはすべて当たったにもかかわらず、これといった手掛かりが得られず、念のためといった気持ちで訪ねたのだった。  もちろん、これまでの話と違っていたからといって、必ずしも勝たちの求めているものに結び付いているとはかぎらない。が、少なくとも、勝の興味を引いた。 「もうそんな前になりますかしら? たしかに、そういう方が住んでいらしたことがありましたわね」  十二、三年前、隣家に学生結婚した若い夫婦が住んでいたのを覚えているか。そう勝が訊いたのに対し、髪に白いものの目立つ五十七、八歳の主婦が答えた。     2 「星さんとのお付き合いはあったんでしょうか?」  勝は質問を継いだ。  星に家を貸した助教授はすでに別のところへ引っ越し、跡には茶色いレンガ風タイル壁のマンションが建っていた。 「お付き合いというほどのものはありませんでしたけど、奥さんとは何度か立ち話ぐらいしたことがありましたわ」  主婦が答えた。  その奥さんが、今は多少名の知れた作家・高岡沙也夏になっているのを、彼女は知らないようだった。 「ご主人は、寒い夜、トイレに立って廊下で寝こんでしまい、心臓麻痺……急性心不全で亡くなったとか?」 「そうでしたわ。朝、六時頃でしたかしら、救急車や警察の方が大勢きて、大変な騒ぎでした。若いのに、いつもお酒を飲んで遅く帰っていたようでしたから」 「ほう、そんなにご近所に分かるぐらい飲んでいたんですか」 「亡くなる二、三ヵ月前頃からは、ほとんど毎晩、深夜の零時、一時に、大声で怒鳴ったりガラス戸を叩いたりしていました。何度かは、帰ってから喧嘩でもしたんでしょうか、大きな物音や喚き合う声、奥さんの泣き叫ぶ声などの聞こえたときもありましたわ」  勝の注意を引いたのは、この点だった。相思相愛だったという二人も、星の死ぬ直前は大声で喚き合う喧嘩をしていたというのだ。星が酒に溺れるようになったとは聞いていたものの、彼らの友人たちは誰一人として、こうした喧嘩については話さなかった。口を揃えて隠したとは考えられないので、知らなかったらしい。  だが、星と沙也夏が喧嘩していたからといって、勝には、それが今度の事件に関係しているとは思えなかった。引っかかりを覚えながらも、質問を進めた。  小松崎の昔の写真を見せ、彼らしい男が隣家に出入りしていなかったか、と訊いたのである。  女が、白髪頭をかしげた。 「では、どういう男でもいいですから、よく来ていたという記憶はありませんか?」 「すみません」  目を伏せ、すまなそうな声を出した。 「いえ、こちらこそ無理なお尋ねをして申し訳ありません」  勝は謝った。  十年以上も前のそんなことを覚えていろ、というほうが無茶であった。 「あ、でも、関係があるかどうか分かりませんが、こんなお話を、新聞の集金に来た方に聞いたんですけど」  彼女が何やら思い出したらしく、急に目を上げた。 「どういうお話でしょう?」 「お隣りのご主人が亡くなった朝のことです。その方が五時頃、新聞を配達しながら一本向こうの道路を自転車で通ったとき、男の人が表通りのほうから早足に歩いてきてお隣りに入って行ったようだ——というんです。二月の五時ではまだ暗く、特に気にとめて見たわけではないので、間違いなくお隣りに入ったのかと訊かれると分からない、とは言っていましたけど」 「朝五時頃というと、救急車やパトカーの来る一時間ほど前ですね?」 「ええ」 「救急車や警察が駈けつけたとき、隣りの家には、奥さんの他に誰もいなかったんですか?」 「はっきり聞いたわけではありませんけど、誰もそんな話をしていませんでしたから、いなかったんだと思います」  それはそうだろう。誰か……もし男がいたといった状況があれば、警察の見方も当然変わっただろうからだ。  そう考え、勝はかすかに胸のあたりがざわめくのを感じた。新聞配達の見間違いでなかったとしたら、どうなるのだろう。そして、救急車や警察が来たとき、わずか一時間前に入って行った男がいなかったとしたら——。 「新聞配達の人は、その男が表通りのどちらから来たのか、言ってましたか?」  勝は質問に戻った。 「いえ。でも、車の走り出すような音がしたのでタクシーで来て降りたのかもしれない、と言っておりました」  勝は、その男がもしかしたら小松崎ではなかったか、と想像をひろげていた。もしこの想像が当たっていれば、そこから彼らの求めている沙也夏の犯行動機が出てくるかもしれない、そんな気がしたからだ。  勝と白畑は所轄署へ行くと、星の死を検証した刑事の一人が退職して市内に住んでいると聞き、北松戸の競輪場に近い彼の家までパトカーで送ってもらった。  退職刑事は、六十代半ばといった感じの長身の男だった。勝が星の死について話すと、すぐに思い出したものの、たいした内容のある話は聞けなかった。  最初、星の妻から消防署に救急車を頼む電話があり、救急隊員の連絡で警察が駈けつけた。しかし、トイレの前の廊下で死んでいたパジャマ姿の男の状況には、何ら不審な点は見出せなかったのだという。 「酔っていたために寒い廊下で寝てしまい、心臓麻痺を起こした——という医師の診断でしたし、解剖の要なしという結論になったんです。私らが行ったとき、妻以外の男ですか? そんな者はいませんでしたよ」  彼はそう答えた。     3  その頃、青森では、寺本たちも苦悩していた。  高岡沙也夏のアリバイを崩さないでは、彼女を容疑者として呼び、追及することができない。  レンタカーを利用したのではないか、という黒江壮の考えを容《い》れ、弘田の殺された九月十七日と、念のために土橋の殺された十月二十八日について、午後十一時三十五分函館発のフェリーに積載された乗用車、すべてをチェックしたところ、九月十七日に関しては、一台不審な車が見つかった。レンタカーではなく、九月末に車検の切れたはずの車である。航送申込書の運転者欄には男子名が書かれていたが、左手で書いたような文字であり、住所地に該当《がいとう》する人間は存在しなかった。しかも、車の履歴を追跡すると、九月初め、室蘭市の解体屋で廃車(抹消登録)寸前の車をマスクとサングラスをかけた女が十万円で借りていったもの、と判明した。  その車は返されていないため、現在どこにあるのか、処分されてしまったのかどうか、といった点は不明である。破格の礼をもらった解体屋は車の用途や女の身元を詮索していなかったので、女が沙也夏であるとも特定できなかった。が、これで、弘田殺しが可能だった点だけは証明された。  また、十月二十八日については、不審な車は見つからなかったものの、車で津軽海峡を渡らなくても、青森に用意しておけば盛岡まで行ける。そして、身一つなら、何とか海峡を渡る手段があったのではないか、と思われた。  つまり、弘田殺しのアリバイは崩れ、土橋殺しについても、時間内の移動に関する疑問は半ば解けたのである。  しかし、問題は、先月二十八日、沙也夏が午後五時の連絡船に乗って函館から青森まで行った、という「事実」であった。この壁があるかぎり、彼女には絶対に函館で土橋を殺すことはできない。  とはいえ、寺本たちは、数度にわたる議論の末、やはり彼女以外に犯人はありえない、という結論を出していた。  では、どうしたらいいのか?  この矛盾を解決する方法は一つだけ、 〈沙也夏には、彼女の身代わりになって五時の連絡船に乗った共犯者あるいは協力者がいた〉  と考える以外にない。  この共犯者あるいは協力者は、沙也夏と年齢、容姿がよく似た双子のような女性でなければならなかった。また、後々、沙也夏にとって危険な存在になるような人間であってはならない。  寺本たちはこう考え、函館港湾署、警視庁と連絡を取り合いながら、沙也夏と親しくしている女性、過去に親しくしていた女性について徹底的に調べた。  しかし、そのどこからも、彼女に似た女性はもとより、彼女の犯罪の協力者になる可能性のある女性は見つからなかった。  当然ながら、沙也夏の肉親に関しても洗った。戸籍で調べたかぎり、彼女にはアメリカへ留学中の弟の他に兄弟姉妹はいない。が、戸籍に載っていなくても、血のつながった姉か妹がどこかにいる可能性がないとはいえないからだ。  現在、彼女の両親は兵庫県の芦屋に住み、父親は大手商社を退職して小さな貿易会社の役員をしていた。そこで、兵庫県警に依頼し、両親の過去と周辺を調べてもらったのである。  だが、ここからも、沙也夏の隠された姉妹、腹違いの姉妹、種違いの姉妹といった女性は、影すら見出せなかった。  残るは、〈沙也夏がどこかで見つけた自分に似た女性を金で雇った〉という可能性だったが、寺本たちは、これはありえないだろう、と結論した。  それは、あまりにも危険すぎるからだ。そうした女性を使って偽アリバイを作るぐらいなら、アリバイなどにこだわらず、犯行の証拠を残さない工夫をしたほうがはるかに安全である。いや、たとえ、アリバイの偽造をするにしても、彼女は推理作家なのだ。まったく別の方法を考えたであろう。——  こうして、四日の夜の捜査会議では、 「警視庁のほうも、動機が見つからないようですし、これは、高岡沙也夏を犯人とする見方を、もう一度検討しなおさなければならないんじゃないでしょうか」  沙也夏犯人説の見なおし論が、またぞろ出てきたのであった。     4  同じ四日夜、美緒は久しぶりに高円寺の壮のアパートを訪ねた。  食事でも一緒に、と思って夕方研究室に電話すると、父の精一が出て、壮は風邪をひいて休んでいる、と言ったからだ。  壮が病気で休むなんて、珍しかった。それほど丈夫そうに見えないのに、意外と頑丈にできているらしく、これまで病気で寝たなんて聞いたことがない。それだけに、美緒は心配になり、五時半の退社時間になるのを待ちかねて会社を飛び出し、どうせロクな物を食べていないだろうと途中でスキヤキの材料を買い、駈けつけたのである。  電話しないで訪ねたので、パジャマ姿でドアを開けた壮は、びっくりした顔をして美緒を見た。 「熱はどうなの?」  玄関へ入り、靴を脱いで上がりながら、美緒は訊いた。  顔の色がいつもより白っぽいものの、思っていたより元気そうな様子を見て、ひとまず安堵していた。 「七度四分ぐらいですから、たいしたことありません」  壮が答え、美緒の視線を眩《まぶ》しそうに避け、パジャマの裾《すそ》を引いた。 「電話したら父が出て、休んでいるって言うでしょう、心配しちゃったわ」 「すみません」 「それより、お昼、きちんと食べた?」 「いえ」 「そんなことだろうと思ったわ。お肉買ってきたから、すぐ御飯を炊いてスキヤキを作るわね」 「すみません」 「あ、こっちこそ、ごめんなさい。奥へ行って寝ていて」 「いえ、もういいんです」 「だめよ。病人を起こしたんじゃ、何のために来たか分かんないじゃない」  美緒は言うと、スーパーのビニール袋とバッグを、テーブル代わりのワゴンの上に置き、壮を寝室へ追いやった。  部屋はいわゆる二Kの造りで、二畳分ほどの台所の他に、四畳半と六畳の和室があり、四畳半が寝室に、六畳のほうが居間兼応接間兼書斎になっている。  美緒は、置いてあるエプロンを着け、時々壮に話しかけながら、御飯をとぎ、電気釜のスイッチを入れてから、スキヤキの準備をした。  卓上コンロとスキヤキ鍋は、卒業して就職した後輩(先輩ではない)にもらったとかで、一応揃っている。  美緒は編集の仕事も好きだが、料理も嫌いではない。壮の病気が重ければ話は別だが、単なる風邪のようだし、こんなふうにして彼のために食事の準備をするのは、特に楽しかった。  ときには食堂にもなる居間兼書斎のテーブルにコンロと材料を運び、あとは御飯の炊き上がるのを待つばかりになった。  そこで、美緒はエプロンを外し、壮の枕元へ入って行った。  彼の頭に近い畳の上には、専門の数学に関する雑誌にまじって、分厚い時刻表も置かれていた。  どうやら、寝ながら高岡沙也夏のアリバイでも破ろうとしていたらしい。  美緒たちも、 〈沙也夏が先月二十八日の午後五時の上り青函連絡船に乗っていたのは九分九厘確実らしい〉  という青森県警の捜査結果を、勝から聞いていたのである。 「風邪をひいたなんて、休んで、事件の謎を考えていたんでしょう?」  美緒は壮の傍らに横座りし、笑いを含んだ目でにらんだ。 「ちょっと見てみただけです」  壮が答え、起き上がろうとした。 「だめ。食事ができるまで」  美緒はそんな彼を抑え、「それで、どーお? 分かったの?」 「分かりません」  壮が枕の上で首を左右に振った。  上から美緒にまともに見られ、なんとなく居心地が悪そうな様子だった。 「ということは、高岡先生は、やっぱり犯人なんかじゃなかったのかしら?」 「僕は、彼女が犯人に間違いないような気がします」 「だって、連絡船に乗って夜九時に青森へ来てしまっている人に、同じ頃、函館へ着いた土橋さんを、九時から十一時までの間にどうやったら殺せるの? 二人の間には、津軽海峡という深い海……というよりは、この場合、四時間の厚い壁が高くそびえているのよ」 「その、あまりにもうまくできた�二人の行き違い�という点に、僕はどうしても胡散臭《うさんくさ》さ、作為といったものを感じるんです。それに、勝部長さんも言っていたように、彼女が朝早く叔母さんを訪ねなければならない用事などなかったはずだ、という点です」 「先生は叔母さんを訪ねてなどいない。そして、叔母さんは、病院へ行く曜日を先生に話した記憶はないと言ったそうだけど、先生はそれを知っていた、ということね?」 「そうです。実家の母親にでも電話して、間接的に聞けたはずです。叔母さんはいつも家にいるといっても、だいたい、電話をしないで訪ねたというのが不自然です」 「そうね。でも、初めの点に戻るけど、先生は五時に函館を出た上りの連絡船に乗っていたわけでしょう? それとも、五時の連絡船に乗っていたのは、先生によく似た共犯者か協力者だったというわけ?」 「�彼女によく似ているうえに危険もない�といった、そんな都合のよい共犯者か協力者がいたなんて、考えられません」 「分からないわ。あなたの言うとおりだったら、先生は五時の連絡船に乗って青森までは来たけど、それに接続している九時十九分発のゆうづる6号には乗らなかった、ということになってしまうわよ」 「そうです」 「五時の連絡船に乗っていたら、犯行は絶対に不可能なのに、そんなの、意味がないじゃない」  美緒は頭がこんがらかり始めた。  壮の論理についていくと、たいてい途中でこうなるのだ。 「ですが、そう考えるしかないんです」  病気の宇宙人が、美緒の思考の糸をさらに混乱させる言い方をした。     5 「ちょっと待って、御飯のスイッチ止まったみたいなので、見てくるから」  美緒は、糸のからまりをほぐすために立ち上がった。  しかし、どうにもならず、電気釜の炊飯ボタンが下《お》り、蒸らしに入ったのを確認して、壮の枕元へ戻った。 「いったい、どういうこと?」  座りながら話の先を促した。 「単純な論理的帰結です」  難しい言葉を、すまして言った。 「じゃ、先生はもう一度函館へ引き返したっていうの?」 「そうなります。高岡さんが犯人で、五時の連絡船に乗っていたのが彼女であるかぎり、他の可能性はありえませんから」 「でも、引き返すだけで四時間よ。青森に夜九時、正確には八時五十五分に着いて、たとえすぐ連絡船かフェリーがあったとしても、函館へ着くのは翌午前一時——土橋さんの死亡推定時刻�九時から十一時まで�を大幅に過ぎてしまうわ」 「ですから、土橋氏は青森で殺したんです。つまり、何らかの口実をつかって、土橋氏に自分と行き違いになる五時五分の下り連絡船に乗ったようにみせかけさせ、自分が青森へ行くまでどこかに待たせておいたんです。それで、彼に青酸カリを飲ませて殺し、前もって準備しておいた車で函館へ運び、立待岬へ捨てたんです」  なるほど、と美緒は思った。弘田の場合とは逆に�青森で殺して死体を函館へ運んだ�というわけなのである。それなら、死亡推定時刻との矛盾は解決する。  とはいえ、問題は、その後だった。 「あなたの考えは分かったわ」  彼女は言った。「でも、それで、先生は翌朝十時前に、神田の私の会社に顔を見せることができたの? それまでに東京へ来れる飛行機か列車でもあったの?」 「残念ながら、見つかりません」  壮が、あっさりと答えた。「夜九時五分前に青森に着き、駅に近いどこかで土橋氏を殺害したとすると、十時十五分のフェリーに乗って函館には午前一時五十五分、約二時に着きます。それから立待岬まで行って死体を処理するのに一時間、これで午前三時です。  青森へ渡るフェリーは四時十分まで、連絡船は七時二十分までありませんから、列車利用では、どうあがいたって、十時までに神田へは来られません。  となると、あとは飛行機だけです。そう考えて、航空ダイヤを見たのですが、函館発の第一便は午前九時五分で、東京着が十時二十五分、青森発が九時三十五分で東京着が十時五十分、とどちらに乗っても、十時前に神田へ現われるのは不可能です。  函館発四時四十二分の札幌行き特急列車『北斗1号』で千歳空港まで行き、千歳を八時二十分に飛び立つ始発便に乗ったとしても、羽田へ着くのは九時五十分ですから、同様です。  他の空港経由がどうにもならないことは、言うまでもありません」  壮はそこでちょっと言葉を切ると、 「それで、実は、困っていたんです」  口ほどには困った様子もなく付け加えた。 「まさか、自家用飛行機かヘリコプターを使った、なんて言わないわよね」 「もちろんです」 「じゃ、どうにもならないじゃない」 「でも、何度も繰り返しますが、他に考えようがないんです」 「なら、さっきも言ったように、先生は犯人じゃないのよ。それしかないわ」  美緒は言った。  といって、壮とのやり取りの流れとして言っただけで、必ずしも本気でそう考えているわけではなかった。 「…………」  壮が、枕の上で黙って首をひねった。  当然ながら、美緒の結論を肯定している顔ではない。 「でしょう?」 「いえ、やっぱり、東京の神田へ十時までに来れる、何らかの手段があったんだと思います」  今度はきっぱりと言った。  壮が言うのなら、美緒も、そうだろうと思う。これまで、大筋において彼の推理が外れた例《ため》しがないからだ。  病気見舞いに来た恋人が枕元に座っているというのに、手ひとつ握ろうとせず、まるで女心を解さない。その鈍感さには美緒も呆《あき》れるが、彼の頭脳にだけは絶対的な信頼を寄せていた。 「あなたがそう言うんなら、きっとそうね。それより、御飯できたから、食べましょう。お腹すいたでしょう?」  宇宙人も食事だけはしないわけにいかないらしい、お客に行って菓子を出されたときの子供のような笑みを浮かべた。  壮は翌日も研究室を休み、美緒は勤めの帰り、食事の支度をしてやるために部屋に寄った。  すると、もう熱はないと電話で聞いていたのに、病気でもぶり返したような深刻げな顔をして玄関へ出てきた。 「どうしたの?」  美緒が訊くと、昨夜考えた、 〈沙也夏が青森で土橋を殺し函館へ運んだ可能性〉  はありえない、と判明したのだという。 「どうしても、十時までに東京へ来れる交通手段は見つからなかったのね?」 「それもありますが、しばらく前に勝部長さんから電話があったんです」  壮の考えは、昨夜、食事の後で勝に知らせてあった。 「何か新しい事実でも?」 「ええ。二十九日の朝、上野駅の三階大連絡橋で高岡さんらしい女性を見た、という駅員が見つかったんだそうです。青森駅、上野駅、それに、ゆうづる6号の車掌……と、彼女らしい女性を目撃した者がいないかどうか、ずっと聞き込みをしていたにもかかわらず、これまでは誰も覚えていなかったらしいんですが」 「大連絡橋っていうと、新幹線の切符売り場のある広場のところよね」 「そうです。その連絡通路を、広場のほうから山手線と京浜東北線の一、二、三、四番線ホームのほうへ歩いて行った、というんです。しかも、時刻はゆうづる6号が着いた直後の六時四十分から五十分頃」 「ゆうづる6号はたしか一階の十八番線ホームに着いたわよね。じゃ、エスカレーターで三階に上がり、山手線か京浜東北線に乗り換えるために歩いて行けば、時刻、場所ともぴったりだわ」 「ええ」 「それにしても、その駅員の方はどうして覚えていたの?」 「高岡さんのファンだったので、自分と反対側から歩いて来たその女性の顔を見て、髪型は違うけど写真で見た高岡さんに似ているな、と思ったんだそうです。その女性の服装、サングラスなどは、高岡さんの申し立て通りだったようです」 「そう。じゃ、多少の不自然さはあっても、高岡先生は、言われた通り、ゆうづる6号で上野に着いていたわけね」 「そう考えざるをえないようです」 「だったら、先生は犯人じゃないわね」  昨夜と違い、美緒は本気で言った。  しかし、壮は、真剣に何かを考えている目を美緒に当てたまま、そうだとも違うとも答えなかった。     6  ——高岡沙也夏に土橋は殺せなかった。  この「結論」は、勝にとってもショックだった。  とはいえ、彼はまだ、最重要容疑者の欄から彼女の名を消したわけではない。  彼は、高岡沙也夏の犯行動機に関して一つの推理を組立て、それは真木田らの支持も得ていた。  沙也夏の夫・星昭芳が死んだ頃、小松崎は葛飾区の亀有に住んでいた事実がその後の調べで分かった。  亀有といえば、星夫婦が住んでいた松戸とは江戸川を挟んで四、五キロの距離である。  一方、新聞配達人の話によると、星が死んだ朝、救急車が呼ばれる一時間ほど前の五時頃、タクシーから降りた男が彼の家へ入って行ったようだった、という。  これらの事実および証言から、勝は、その男こそ小松崎であり、彼は沙也夏の電話で星の死を知らされ、駈けつけたのではないか、と考えたのである。  しかし、星が沙也夏の証言のような死に方をしたのなら、小松崎に知らせる必要はなかったはずである。というより、真っ先に救急車か近所の人を呼んだはずであろう。驚き、気が動転していたとしても、救急車の出動を頼んでから小松崎に相談を求めたはずである。ところが、彼女は小松崎らしい男が来て一時間もしてから、一一九番に電話した。しかも、救急隊員や警察が駈けつけたとき、彼女の家に来ていたはずの男の影はどこにもなかった。  ここから出てくるのは、星の死は沙也夏が刑事に述べたようなものではなかったのではないか、という想像である。  では、それはどういう死だったのか?  具体的には分からないが、殺人あるいは彼女の過失による死だったのではないか、と勝は推測している。  いずれにしても、まだ二十一、二歳だった沙也夏には、その夫の死に適切に対処することができなかった。もし過失による死だったとしたら、気が動転して、なおさら自分だけの判断ではどうする術《すべ》も思いつかなかっただろう。  それで、思い浮かべたのが夫の親友で、沙也夏とも親しくしていた小松崎だったのではないか。彼女には、小松崎に知らせたらどうなるか、といった後のことまで考える余裕はなかった。とにかく彼に助けを求め、彼のほうも、自分が行くまで何もするなと言っておき、取るものも取りあえずタクシーで駈けつけた——。  また、小松崎が沙也夏の許《もと》に駈けつけてから、救急車が呼ばれるまで約一時間あった。これは、どうするか相談していただけにしては長すぎる。ということは、この間に死体に何らかの手を加え、〈一人でトイレに立って廊下で寝てしまい、死亡した〉という状況を作ったのであろう。  こうして、沙也夏は、小松崎のおかげで難を逃《のが》れた。一方、彼に大きな借りをつくり、同時に弱味を握られてしまった。  といって、小松崎がすぐに彼女を脅《おど》して男女の関係を迫ったり、金品を要求したりしたかどうかは、分からない。勝は、それはなかったのではないか、と考えている。そのときは、小松崎は単に無言の優位に立ち、沙也夏は無言の劣位に立たされただけではなかっただろうか。  この無言の優劣の関係は、小松崎が結婚し、沙也夏が小説家として売り出してからもつづいた。外見《そとみ》には、「編集者と作家」「熱愛していた夫の親友だった男と、その夫を亡くした女」といった関係に見せながら、二人の間には、常に星昭芳という男の死んだ日の記憶が横たわっていた。この記憶は、彼女が作家として知名度が高くなればなるほど重みを増し、彼女にとっては、いつも首筋にナイフの切先を当てられているような感じになっていったかもしれない。  としたら、彼女は、そのナイフを何とか取り除く方策を考えただろう。  小松崎がいつ頃から彼女の体を要求し出したのかは、不明である。もしかしたら、計画の必要性から、彼女が進んでその餌を与えた可能性も考えられる。  とにかく、沙也夏のなかに小松崎に対する殺意の芽があったところへ、土橋の問題が加わった。土橋の原稿を読んだ小松崎か弘田が、作品中のトリックを沙也夏に話し、彼女はそれを三沢書房から出した自分の小説に盗用し、大きな評判を呼んだのである——いかに素晴らしいトリックでも、小松崎たちは自社から出版する作品にそれをつかわせるわけにはゆかなかったのだろう——。  怒った土橋は、彼が懸賞に応募した小説『「完全犯罪」殺人事件』にあったように、小松崎と弘田に抗議し、撥《は》ねつけられると、今度は函館の沙也夏を訪ねた。  だが、沙也夏も、トリックが似たのは偶然の一致にすぎず、自分は誰にも土橋の原稿の話など聞いていない、とつっぱねた。  土橋のほうだって引きさがらない。彼の小説から想像したかぎりでは、激昂《げきこう》したと思われる。それなら、どんな手段を使ってでも貴様たちの卑劣な行為を世間に公表し、おまえの作家生命を葬ってやる、ぐらいは言っただろう。  土橋に実際にそれだけの力があるとは思えなかったが、それを聞き、沙也夏は不安になった。土橋を見ていると、いかにも執念深そうで、本当に何をするか分からないといった感じだったからだ。  たとえ、土橋の主張を支持するマスコミや世論が現われても、それで即、作家生命が絶たれるといったおそれはない。とはいえ、無名の新人の原稿を盗用したとなれば、それは許されざる卑劣な行為として、彼女の評判は地に堕《お》ちるだろう。折角つき始めた読者は背を向け、本は売れなくなり、結果として注文がこなくなる。どこの世界でも同じだが、これは厳しい現実だった。そして、注文がこなくなれば、エンターテイメントの作家など、どうにもならないのである。  沙也夏は、土橋の訪ねてきた事情を小松崎に話し、相談したと思われる。それに対し、小松崎は、盗用の証拠はどこにもないし土橋になど何もできやしない、放っておけばいまに諦める、とでも言ったのではないか。  しかし、それでも彼女は不安だった。編集者はいわば黒子なので、万が一土橋が真相を暴露したところで、安全である。多少の批判、非難を浴びるだけで、首になるといったおそれはない。  そう思ったとき、沙也夏は、長い間の重圧だった小松崎と、今度の盗用の件を知っている弘田、土橋の三人を殺す決意を固めたのではないだろうか。  土橋が銀嶺書店だけでなく、他のいくつかの出版社にも原稿を持ち込み、断わられているという事情は、彼の話から察しられた。また、自分の小説が受け容れられない現実に、大きな不満を抱いていることも。それなら、その不満、恨みから弘田と小松崎を殺し、追いつめられて自殺したように見せれば、安全だった。それで、土橋の住んでいる青森で弘田が知人に会ったように見せかけたり、小松崎が殺されたとき土橋が東京へ来ているように仕向けたり、彼が投稿した先を聞き出し、笹谷美緒たちに脅迫状を送ったりしたのであろう。——  勝たちのもとに、青森県警から新しい報告が入ったのは、六日の金曜日である。  段ボール箱四つにぎっしりと詰まった土橋の下書き原稿のなかに、この四月高岡沙也夏が三沢書房から出版した『殺人幻想曲・夢色』のメイントリックとまったく同じトリックをつかった作品の断片が見つかった、というのであった。 「これで、少なくとも、高岡沙也夏の否定している、彼女が土橋のトリックを盗用した事実は裏づけられた」  電話の内容を勝たちに伝えた後で、真木田が言った。「つまり、彼女には、チョウさんの考えたような、土橋殺害の動機があった事情がはっきりしたわけだ。もちろん、土橋が高岡沙也夏を訪ねたのは、『ファンだから……』といった理由じゃなかった、という点もだ」 「我々の進んでいる方向はどうやら間違っていないらしい、ということですね」  勝は言った。 「うん。だが、高岡沙也夏を追及したところで、トリックの一致はあくまでも偶然だと主張するだろうし、これだけでは、彼女を追いつめる役には立ちそうにない」  その通りだった。  彼女を追いつめるには、犯行の明確な証拠をつかむか、あるいは、彼女が絶対の自信を持っているにちがいない土橋殺しのアリバイを破る必要があった。  ところが、あの黒江壮の頭脳をもってしても、今回のアリバイだけはどうにもならないようなのである。  勝がそう思ったとき、また電話が鳴った。  応対した刑事が、勝にだという。 「もしもし……」  勝が受話器を取って言うと、たったいま頭に浮かべていた黒江壮だった。 「その後、いかがでしょうか?」  壮が訊いた。  その後といっても、昨日の夕方話しているから、わずか一日しか経っていない。 「相変わらずです」  勝は答え、一応土橋の下書き原稿が見つかった事実を伝えた。 「そうですか」 「あ、それより、風邪のほうはいかがですか?」 「なおりました」 「今、どこにおられるんですか?」 「えっ、どこでしょう? よく分かりませんが……それより、今夜はちょっとお願いがあって、お電話したんです」 「何でしょう?」  自分がどこにいるのか分からないとは妙だったが、勝は問わないことにした。  この男と付き合っていると、時々こういうおかしな経験をするのである。 「高岡沙也夏がこれまでに住んだ場所……そうですね、中学生時代以降で結構ですから、それをまず調べていただけませんか?」 「彼女の住んでいた場所が何か?」 「もしかしたら土橋氏殺しのアリバイを破るカギが見つかるかもしれない、と考えています」 「分かりました」  勝は答えた。  この�頭脳�に対しては、相手が進んで話さないかぎり、しつこく問い質《ただ》したりしないようにしていた。つまり、それだけ信頼しているのである。 「中学時代以降でいいんですね」 「ええ。彼女の居住地が分かったところで僕の考えを説明し、あらためて肝腎《かんじん》な点を調べていただきます」  勝は承知したと答えて、電話を終えた。  真木田や他の刑事たちが、話をやめて勝を注視していた。  口にこそ出さないが、みな壮の頭脳に期待しているのである。  勝は、いまの話を報告した。 「うむ」  真木田が複雑な思いのこもった顔をして、うなずいた。     7 「いったい、どういうことなの?」  勝との電話を終えた壮に、美緒は訊いた。  改札口を出れば五分とかからないところに勝たちのいる三鷹中央署がある、中央線三鷹駅のホームである。  なぜこんなところにいるのか、というと、こうだ。  今日は壮が出勤したので、帰りに待ち合わせ、水道橋から一緒に電車に乗った。すると、新宿を過ぎた頃、彼が突然「考える人」になってしまった。それで、仕方なく終点まで付き合い、電車から降ろしたところ、今度は急に、勝に電話してくる、と言い出したのである。  周囲を見回して、ようやく三鷹駅にいるのが分かったらしい壮が、不思議そうに美緒の顔を見た。  この宇宙人、自分が「考える人」になっていた間の出来事は記憶にないのだ。 「ねえ、高岡先生がこれまでに住んでいた場所を調べて、どうするの?」  美緒はかまわずにもう一度訊いた。 「さらにある事実を調べたいんです」 「そうすると、高岡先生のアリバイが破れるの?」 「その可能性があるというだけです」 「どういうことなのよ?」 「電車の中で、美緒さん、今度髪型を変えてみようって話してましたね。それで、高岡さんがそれまでずっと長い髪をしていたのに、この夏頃か秋口か、男のような短い髪にした、という話を思い出したんです」 「それがどうしたの?」 「ずっと長い髪をしていたのに、彼女はなぜ急に切ったんでしょう」 「そんなの分からないわ。何か心境の変化でもあったんじゃない。よく失恋したりしたら髪を切るって聞くけど」 「彼女も失恋したんでしょうか?」 「さあ」 「時期からみて、今度の殺人計画に必要だった、とは考えられないでしょうか」 「殺人に髪型が関係するの?」 「一般的には関係しないでしょうが、今度の場合にかぎって」 「分からないわ、説明して」 「僕にも、まだ自信がないんです。ですが、先月二十九日の午前六時五十分頃、上野駅で高岡さんらしい女性を見たという駅員の証言が事実なら、�論理的な帰結として、今度こそ一つの可能性しか考えられないんじゃないか�と思ったんです」 「また、論理的帰結?」 「ええ」 「でも、それと、髪型と……」 「美緒さんも考えてみてください」  壮が美緒の言葉を遮って、薄く笑った。 「それより、電車に乗りましょう」  美緒は仕方なく、彼につづいて折り返しの電車に乗り、頭をひねった。  この宇宙人、憎らしいことに、時々こんなふうに美緒の頭をためして楽しむ嫌らしい癖があるのである。 「もし僕の想像が当たっていれば、高岡さんのアリバイはあまりにも完璧すぎたために、逆にそこに陥穽《おとしあな》があった、ということです」  壮が言ったとき、電車が走り出した。  第十章 名奇術師マリニの伏線     1  二百人ほど座れる座席は、ほとんどうまっていた。  男の数は精々二、三十人。あとは当然女性だが、四十代、五十代の主婦といった感じの姿が圧倒的に多い。 「それでは、最後に、マックス・マリニという奇術師についてご紹介し、私のお話を終わらせていただきます」  高岡沙也夏は、彼ら、自分の前に座った人々の反応を観察するように、ちょっと言葉を休めてからつづけた。 「マックス・マリニは、十九世紀末から二十世紀の前半にかけてアメリカで活躍した、近代クロースアップ・マジックの父とも言うべき人ですが……」  沙也夏は話しながら、満足感を味わっていた。  もちろん、聴衆の反応がなかなかのものだという感じがつかめていたからでもある。  しかし、彼女は今、推理小説の話をしながら、それに重ねて、絶えず自分が遂行した現実の犯罪について考えていた。  今日は十一月二十日(金曜日)。  場所は、函館駅前にあるデパートの催し物用の部屋である。  沙也夏が、そのデパートが地元の新聞社とタイアップして始めたカルチャーセンターの特別講師として講演を依頼されたのは、半月ほど前だった。求められた演題は「ミステリーの楽しみ方、書き方」。一応引き受けたものの、そのときは、何をどう話すかといったことなど考える余裕はなかった。  不安のまっただ中にいたのである。自分は安全なのだ、どこにも遺漏《いろう》はない、自分は完全犯罪を成し遂げたのだ——己れの胸にそう言いきかせながらも、刑事たちの影に脅えていた。  しかし、それから十日以上が経ち、彼らが手も足も出ないでいるのが分かった。数日前も、青森県警の五十嵐、寺本という二人の刑事がやってきたが、彼らの捜査は完全に暗礁に乗り上げているようだった。  土橋の部屋から、彼女が盗用したトリックをつかった作品の下書き原稿が見つかったらしいが、そんなものが何になろう。事実を知っている弘田、小松崎、土橋の三人はもうこの世にいないのである。偶然の一致、あるいは、土橋のほうが私の作品を真似たのではないか、彼女がそう主張するかぎり、それを覆す方法はない。 「……マリニは、自分の奇術の効果を高めるためなら、いかなる労力も惜《お》しまず、忍耐もいとわなかった、と言われております」  沙也夏は話しながら、自分もマリニのように忍耐強く待ちつづけ、労力を惜しまなかったからこそ、計画は成功したのだ——と思った。 「例えば、こんなエピソードがございます」  彼女はつづけた。「マリニは、誰かの家に招待されると、気づかれないように、額縁の後ろなどにそっと一枚のトランプを隠しておいたのだそうです。そして、ふたたびその家を訪れたとき、彼は隠してあるカードと同じ種類、同じ数字のカードを客の一人に引かせ、そのカードを消してみせてから、額縁の後ろから発見させ、びっくりさせたんだそうです。  もちろん、マリニがその家にふたたび招待されるのは、何年後になるか分かりません。いえ、二度と招待されずに終わる可能性だって高いのです。それでも、彼は、�もしかしたら役に立つかもしれない�といった、こういう準備、伏線をさまざまなところに敷いておいた、というわけなんです。  もう一つだけ、ご紹介しましょう。  それは、ある仕立て屋の店内に下がっていた夜会服の裏地に、ハートのキングを縫い込んでくれるよう無理やり店主に頼み込んだ、という話です。  服の持ち主は有名な国会議員なのですが、彼がそれを着てパーティに現われ、誰かがマリニの奇術を希望したら、そのときこそ、議員の服の裏地からハートのキングを取り出して見せ、人々をアッと言わせようという魂胆だったのです。  しかし、これも、そのような機会が巡ってくるかどうかは、非常に低い確率でしかありません。それにもかかわらず、マリニはその低い確率のために労力を惜しまず、しかも、チャンスの到来を辛抱強く待ちつづけた、というわけです。  以上のように、自分の奇術の効果を高めるためには可能なかぎりの努力をした、ということは、極めて用意周到だったという意味でもあります。  それで、また本題のミステリーに戻りますが、この点、最近の推理小説に登場する犯人たちは安易すぎ、マリニに見習う必要があるように、私には思われます。犯人たちと申しましたが、これは、もちろん彼らを造形している作者である私たちのことです。つまり、私たち作者が、締め切りを口実に、あまり考えずにいいかげんな妥協をしているという意味です。現在、推理小説の隆盛が言われ、私のような者にまで注文がきて、何とか御飯が食べられ、ありがたいと思っております」  沙也夏はここでまた言葉を切り、聴衆が笑いで応えてくれるのを確かめた。 「ですが、注文がくるからといって書きとばし、つまらない作品を量産していたら、読者のみなさまに見放される日がくるに決まっています。これは、もちろん私の自戒でもありますが……。  というわけで、もしみなさまのなかに、私も推理小説を書いてやろう、といった方がおられましたら、既成の作家が書きとばした作品など参考になさらずに、どうか、いまお話ししたマリニのエピソードを頭に浮かべ、労力を惜しまず、練りに練った作品を仕上げられるよう、お願いして、私の話を終わらせていただきます」  沙也夏が話を終え、頭を下げると、拍手が沸《わ》き起こった。  それは、彼女が顔を上げると、さらに大きくなった。  聴衆の顔が満足そうなのを見て、彼女も満足だった。もう一度軽くおじぎをし、誇らしい気持ちで演壇を降りた。  マリニの話は、単なる思いつきではなかった。マリニの周到な準備、マリニの忍耐——これらは、彼女が自分の殺人計画を遂行するに当たって、常に頭に刻みつづけていた教訓であった。  夫の星昭芳が死んでから十数年、彼女はひたすら待ちつづけてきた。�殺人者としての脅え�から解放される日、そして、その秘密を知る小松崎から解放される日を、である。待って待って待ちつづけ、土橋という男が現われたとき、万全の準備をしたうえで、行動を起こしたのである。  そして、今、その日を自分のものにし、聴衆を前にマリニの教訓を語った。  それだけに、沙也夏の胸には、特別の感慨があるのである。  聴衆は、誰一人として、彼女の心のうちを知らない。彼らには、いま話したマリニの教訓が、彼女にとってどういう意味を持つものだったのか、推しはかる術はない。  沙也夏は、自分は勝利者になったのだ、と思った。彼らの拍手は、彼女の勝利をたたえる拍手なのだ。  彼女は主催者の係員に挨拶し、拍手に送られて部屋を出た。  そして、少し離れた控え室に向かおうとしたとき、 「先生」  と、後ろのドアから出てきた聴衆の一人に呼び止められた。     2  沙也夏は足を止め、振り向いた。  三十歳ぐらいの背の高いがっしりした男が、追いついてきた。 「先生、このあいだはどうもありがとうございました」  男は、親しげな笑いを浮かべて言い、頭を下げた。 「このあいだ?」  沙也夏は男を見つめた。男の顔に見覚えがない。 「先月二十八日、先生は函館を午後五時に出る青函連絡船で青森まで行かれませんでしたか?」  男がさらに言った。  その言葉に、彼女は事情の輪郭を理解し、気持ちを引きしめた。 「行きましたけど……」  ここはできるだけ曖昧に答え、相手の話を引き出す必要があった。 「ほら、連絡船を降りて、青森駅のホームで……」  彼女は考えるふりをして、首をかしげた。 「まだ思い出していただけませんか?」 「ごめんなさい」 「先生がホームに入っていた�ゆうづる�に乗ろうとされていたとき、僕は写真を撮らせていただいたじゃありませんか?」 「…………」 「いずれお送りするから、と言って」 「ああ、やっと思い出したわ。ごめんなさい本当に。あのときの方? 私、慌てていたから」  沙也夏は言った。  ようやく事情の八割がたが理解できたのである。 「はい、これがその写真です。お送りしなくても、今日お会いできると思ったものですから」  男が、一枚のサービス判のカラー写真を差し出した。  そこには、まさにデッキに足をかけようとする寸前、振り向いた「彼女の姿」が写っていた。  夜なので、全体に暗く、かなり離れて撮ったのか顔が小さい。それでも、「彼女」らしいとは分かるし、バックも、ブルートレインの車体であることが分かる。  沙也夏が礼を言っていると、部屋から出た聴衆が集まってきた。 「それじゃ、僕は……」  男が遠慮して、立ち去ろうとした。  そのとき、沙也夏は、男の住所と氏名を聞いておけば自分のアリバイ立証に役立つかもしれない、と思い当たった。もう必要ないだろうが、念のためである。 「あなたのお名前、教えてくださらない?」  彼女は言った。 「いえ、僕は、先生の単なる一ファンですから」  男は言ったものの、彼女がさらに頼むと、名刺を差し出した。  肩書きはなく、石黒正治という名と青森市の住所、電話番号が記されていた。     3  それから三日が過ぎ、今年最後の連休が終わった。日曜日、勤労感謝の日とつづいた連休である。  沙也夏は、これまで落ちついてできなかった清新社から受けた書き下ろしに、本格的に取りかかった。  原稿用紙に向かっていても、数ヵ月前とはまるで違った気分だった。  これまでの十数年間、小松崎の存在がいかに重く自分の心にのしかかっていたのかを、あらためて感じた。  沙也夏は、三人の男たちを殺したことに関して、それほど罪の意識を感じていない。一種の正当防衛だと思っていた。もし彼らを殺さなければ、自分が破滅するかもしれなかったし、生涯、小松崎の重圧のもとに暮らさなければならなかったのだから。  三人のうち、沙也夏が最も憎んでいたのは小松崎である。この十数年間、死んだ夫の親友という名の裏で、彼は、常に彼女の優位に立ちつづけてきた。笑いながら、「僕があの件を洩らしたら、あなたは破滅ですからね」と繰り返してきた。あからさまに何かを求めるというわけではないのだが、その言葉の後でつぶやく彼の希望は、彼女にとっては絶対的な命令に等しかった。  一時、沙也夏は小松崎との結婚を望んだことがある。だが、彼はそれを無視して別の女性と結婚し、その後で暗に彼女の体を求めてきた。つまり、「おまえのような殺人者が対等なものを求めるな」という、無言の�通告�であった。  もし小松崎がもっとはっきりした脅迫者だったら、彼女は、破滅をかえりみる余裕などなく、とっくに行動を起こしていたと思われる。しかし、彼は、表面はあくまでも親しい友人同士、編集者と作家、という関係を崩さなかった。  次に弘田である。  彼は、沙也夏が小松崎を殺せば、彼女を疑うであろう危険な人物であった。  小松崎は、酒を飲んだときにでも、星の死の事情の一端を弘田に洩らしたようだ。いや、弘田は、小松崎が沙也夏の優位に立っているのをその前から感じ取っていた節がある。だから、小松崎の話により、彼は自分の観察に自信を深めたものと思われる。沙也夏に対して、表面はあくまでも「先生、先生」と立てながら、小松崎と同様に、暗に自分の優位を示そうとする素振りが感じられるようになった。それは、彼らが話した土橋のトリックを彼女が盗用した、と分かったとき、いっそうはっきりとした態度になって現われた。彼女を内心で軽蔑し、見くびりだしたのである。小松崎と同様に、いずれは彼女の体まで要求しかねない感じがした。  こうなったら、弘田はもう危険な存在というだけではなかった。許せなかった。青二才の慇懃無礼な態度に我慢ならなくなった。  そんなとき、小松崎と弘田に抗議してつっぱねられた土橋が、彼女の家へ真偽を糺《ただ》しに来たのである。  土橋は、いかにも陰気で執念深そうに見えた。彼女が、トリックの相似は偶然の一致にすぎないと言うと、必ず真相を明らかにし、貴様らの卑劣な行為を世間に暴露してやる、と喚いた。  それでも、何とか追い払った。これが、五月の中頃である。ところが、それで諦めたと思っていたところ、七月に入ってふたたび現われ、自分は貴様たちの行為を小説に書いて「小説ルビー」の新人賞に応募した、と言った。登場人物はイニシャルにしておいたが、受賞したら、誰がモデルか明らかにしてやる、というのである。怒りにまかせて一気に書いたらしい。  それを聞いたとき、沙也夏は、これ以上彼と対立し、怒らせておくのは得策ではない、と考えた。もちろんトリックの盗用を認めるわけにはいかないが、彼が無謀な行為に出ないようにするには、彼の話を聞き、なだめておいたほうがよさそうだった。  そこで、彼女は、土橋を応接間に通して客としてもてなした。そして、彼の帰った後で小松崎に電話をかけ、小松崎も土橋に連絡をとり、良い作品があったら読んでやると言っておいたほうがいいのではないか、と話し合った。  土橋はその後も二度ほど沙也夏を訪ねてきた。その話のなかで、彼が石川啄木と同郷で、啄木を敬愛しているという事実を知ったのである。彼は彼で小狡く計算し、「小説ルビー」に応募した作品が受賞すればしたでいいし、もし受賞しなかったら、彼女や小松崎の引きで銀嶺書店から別の作品を出版させよう、と考えていたようだった。  沙也夏の中に、三人を殺す計画が生まれたのは、その頃からであった。  沙也夏は、己れの人生を、未来を守るために——具体的には、小説家になるという子供の頃からの夢を守るために——一時は熱烈に愛し合った夫・星昭芳を�殺した�。そして、その後の血のにじむような努力の末、ようやく夢を実現させた。何とか筆一本でやっていけるだけの現在の�地位�を獲得した。この�地位�だけは絶対に奪われたくない。だから、それを守り抜くためならどんなことでもしよう、と思ったのだ。  弘田が自分の優位を示そうとする態度を取るようになったといっても、編集者と作家という関係には変わりがなかった。  そこで、沙也夏は、次作につかうトリックのためにある実験をしたいので手伝ってくれないか、そう彼にもちかけた。  そのトリックというのは、弘田殺しに実際に使用したトリックである。  ある男が青森で知人に会い、乗る予定だった青函連絡船に乗らず、翌日死体となって青森で発見される。これが表の筋書きで、実際は、男は偽名で予定通り連絡船に乗り、函館へ行って殺され、青森へ運ばれた——というわけである。 「悪いけど、弘田さんにその被害者の役をやってみてほしいの。予定通り、十二時十分の連絡船に適当な偽名で乗り、船の上から東京の小松崎さんに電話をかけ、まだ青森にいるように装ってくれればいいんだけど。もちろん、小松崎さんには、後で本当の事情をお話しして謝るわ。うまくゆけば、作品に、より強いリアリティが出せるから」  沙也夏がこう説明すると、弘田は、 「それは、おもしろそうですね」  と、二つ返事で乗ってきたのである。  沙也夏は筆を休め、考えるともなく、頭に浮かんできた諸々のことを考えた。そして、あらためて、自分の計画は万全だったと自信を深めていると、チャイムが鳴った。  彼女は書斎を出て、二階の廊下に付けたインターホンの受話器を取り、「はい」と答えた。  すると、聞こえてきたのは、 「青森|県警《けんげえ》の五十嵐《えがらす》です」  という、もう何度も耳にした津軽弁であった。     4  沙也夏は、仕方なく階下へ降りてドアを開けた。  五十嵐と、寺本という若い刑事の二人が立っていた。 「今日はどんなお話でしょう?」  彼女が訊くと、 「何度も申しわげありませんが、実《じづ》は、先月二十八日、高岡《たがおが》さんを夜七時半頃、函館駅近くで見がげだ、という人が出でまえったものですがら」  五十嵐が答えた。 「まあ! 人違いに決まっていますわ」  沙也夏は笑いながら言い、とにかく二人を応接間へ上げた。 「すでに何度も申し上げているように、私は五時の連絡船に乗って、青森へ渡ったんですから」 「ええ」  二人にソファを勧め、彼女は自分も腰をおろした。 「青森に住んでいらっしゃるという千島さんご夫婦にお尋ねになり、はっきりしたんじゃありませんの?」  五十嵐たちが千島という老夫婦を突き止めた事情は、沙也夏も聞いていた。 「そんですが……もすがすたら、千島さんたづの見だのが人違え、という可能性もありますがら」 「私はサングラスを落としたことや、座った席までお話ししたじゃありませんか」 「えや、そのあどです。同ず席《せぎ》さ座ってえで、青森で降りだという人のごどです。それども、高岡さんは、降りるどぎ、彼らと話をすますだが?」 「話はしてませんけど」 「それでは、同ず席さ同じ年恰好の人が座っでえれば、まづがえる、というごどもありうるでしょう。千島さん夫婦は、もうお歳で、目もよぐなえようですし」  沙也夏は少し不安になった。  警察はもう彼女のアリバイを百パーセント認め、諦めた、と思っていたのだ。  もちろん、真相を見破られるおそれはないだろうし、彼らには彼女のアリバイを破る証拠を揃えることは絶対にできないだろう。  そうは思っても、彼らがいつまでも自分に付きまとっているのは、気持ちのいいものではなかった。 「もづろん、わだすたづは、高岡さんを特に疑っでえるどゆうわげじゃなえんです。ですが、仕事ですがら」  五十嵐が申し訳なさそうな顔をした。 「分かりますけど」 「で、今日、うががったのは、高岡さんが、どこがで誰がど言葉を交わしてえなえが、それを思え出しでくれなえが、ど思えますて」  そのとき、沙也夏は、先日の写真を思い出した。  あれを撮った石黒正治という男なら、「自分が青森まで五時の連絡船に乗って行った」と証言してくれるだろう。 「証人がおりましたわ」  彼女は言った。 「おりますたが」 「私も忘れていたんですけど、あの晩、青森駅のホームで私の写真を撮ってくださった方がいたんです。その方が、先日、私の講演会に見えて、そのとき撮った写真をくださったんです」 「その方《かだ》とは、青森駅のホームで言葉を交わすたんですね?」 「もちろんです。なんて言ったか、言葉までは覚えていませんけど、写真を撮らせてくださいと頼まれ、承知して、振り向いたんですから」 「間違《まづが》え、ありませんが?」 「ありませんわ」 「じゃ、その写真を見せでえだだげませんが?」  彼女は立ち上がり、写真を取ってきた。  暗く、顔が小さいので、見破られるおそれはない、と思った。写真など、瞬間の表情を固定しただけなので、本人でさえ、これが自分の顔かと思うようなものもある。拡大したところで、ぼけるだけだろう。 「ほう、たすがに、高岡さんですな」  写真を見て、五十嵐が言った。 「もちろんですわ」  沙也夏は笑った。 「これを、二十八日の夜、九時十九分に青森を出るゆうづる6号の前で撮られだわげですな?」  五十嵐がくどく繰り返した。 「ええ」 「それじゃ、写真はおがえししでおぎますから、写真を撮った人の名前と住所だけ、教えでください」  彼女は、写真と一緒に持ってきていた石黒の名刺を差し出した。  すると、寺本という若い刑事がそれを手帳に写し、五十嵐が礼を言って腰を上げた。     5  四日後の土曜日、東京から笹谷美緒が訪ねてきた。  小松崎殺害の翌日、羽田空港で顔を合わせた、黒江壮という彼女の恋人らしい無口な数学者も一緒だった。  二日前、用事で函館まで行くので寄らせてもらっていいか、という電話が美緒からあったのである。  黒江という男は、こちらから何か尋ねないかぎり口をひらかなかった。  沙也夏と美緒が話すのを、おもしろいのかおもしろくないのか分からない顔をして、聞いていた。  それは前と同じだが、笹谷美緒の様子が、これまで何度か会ったときと微妙に違っていた。どことなく屈託が感じられるのである。お喋りをし、笑っていながら、その顔を時々暗い翳のようなものがよぎる。また、会話の途切れるのをおそれているような、時間を気にしているような気色《けしき》も見られた。  沙也夏は、そんな美緒の様子をちょっと訝《いぶか》ったものの、特に気にしたわけではない。久しぶりに話らしい話をし、楽しかった。  そして、一時間ほどした頃だろうか。美緒がさり気ない様子で時計に何度目かの視線をやったとき、チャイムが鳴り、刑事たちが訪ねてきた。  沙也夏が美緒たちを応接間に残して出て行くと、今日は、五十嵐、寺本の他に、警視庁の勝という初老の刑事もいた。  彼女は、来客中だからと言って、そのまま玄関で彼らに対した。 「まだ、何かご用ですの?」  彼女は、新顔が加わったことに少し緊張して、訊いた。 「申すわげありませんが、先日の、青森駅で撮ったという写真をもう一度《えづど》見せでえだだげませんが」  五十嵐が言った。  彼女は取ってきて、彼に渡した。 「これは、先月二十八日の夜、青森駅で——九時十九分に出るゆうづる6号の前で——撮ったものに間違いありませんね?」  五十嵐から受け取った写真を見て、勝が念を押した。 「この前も申し上げた通り、間違いありませんわ。石黒さんに訊いてくださったんじゃないんですか」 「ええ、それが、彼は、勘違《かんつが》えだった、としゃべっでるんです」  五十嵐が答えた。 「勘違い?」  沙也夏はハッとした。  顔色の変わるのが、自分にも分かった。  いったい、どういうことか? 「勘違いといっても、この写真が、ここにあるじゃありませんか?」  彼女は押した。そうだ、この写真があるかぎり大丈夫なのだ、そう自分の胸に言いきかせながら。 「彼は、よぐ考えだら、これは別の日の別の時間に撮ったんだった、としゃべっでるんです」 「そんな! 私は、あのときの他に、石黒さんという方に写真を撮られた経験などありませんわ」 「じゃ、これは、どうあっても、二十八日の夜、青森駅のホームに停まっていたゆうづる6号の前で撮ったものだと?」  勝が、さっきと同じ言葉を繰り返した。 「もちろんですわ」  彼女も答えた。 「そうすると、実におかしなことになるんですがね」 「…………」  沙也夏は、息を呑んだ。  何かこの写真から見つかったのだろうか。この写真の女が�彼女ではない�と分かったのだろうか。  いや、そんなはずはありえない。彼女自身にさえ、判別がつかないのだから。それに、「彼女」がここに写っているという事実は、石黒という男は、二十八日の夜、青森駅のホームでこれを撮ったに違いないのだ。 「何がおかしいんですの?」  勝が何も言わないので、彼女は待ちきれなくなって言った。 「あなたは推理作家でありながら、鉄道ミステリーは書かれないようですね」 「……?」 「だいたい、女性作家の書いた鉄道ミステリーには、滅多《めつた》におめにかかりませんし、女性の鉄道マニアというのも、あまり聞きませんが」  ひょっとして、自分は何か過ちを犯したのだろうか? 「この写真を見てください」  沙也夏が黙っていると、勝が写真を差し出した。 「バックに写っている列車、おかしくありませんか?」 「私の乗ったブルートレイン、ゆうづる6号じゃありませんか」 「この写真の列車はたしかにブルートレインです。しかし、あなたの乗ったと主張されているゆうづる6号は、この写真のようなブルートレインじゃないんです。広義には、それもブルートレインと呼ぶのかもしれませんが、機関車に牽《ひ》かれる列車ではなく、電車寝台なんです。電車寝台ということだけは、時刻表にも書いてありますから、ご存知でしょう」 「…………」 「両者の車体は、いずれもブルーが主体である点は同じです。しかし、デザインが違うんです。ふつうブルートレインと呼ばれている列車寝台は、この写真のように、ブルー地に二本の——まれに三本の——白や金色の細い帯が入っているだけですが、電車寝台のゆうづる6号の車体は、窓の上下に、白っぽい部分がもっと広くあるんです。  どうやら、列車にあまり興味を持っていないあなたは、〈寝台特急〉イコール〈ブルートレイン〉、と思い込んでおられたようですな。思い込んでいなければ、注意深いあなたのこと、念入りに調べられたでしょうから」  沙也夏は、どう応じるべきか、判断がつかなかった。  分からなかった。何が起こったのか、あの石黒という男が誰だったのか、警察の罠だったのか——。 「この写真の示しているおかしな事実は、いったいどういう意味でしょうな? ご説明いただけますか?」 「そんなの分かりません。でも、とにかく私は、二十八日の夜、ゆうづる6号の前で写真を撮られたんです」  彼女は言った。最後までそう主張しようと決めた。 「で、あなたは、ほかのとき石黒さんに写真を撮られた経験はない?」 「……ええ」 「となると、どうなるんでしょうな。バックだけ入れ替えたんでしょうか」 「…………」 「しかし、この写真には、そうした手を加えた跡は見られません」  沙也夏は、アッと叫び声を上げそうになった。  彼らの狙いが分かったのだ。  写真は、やはり罠だったのだ。 「あとは、一つの可能性しか考えられませんな」  勝が言葉を継いだ。 「…………」 「ここに写っているのは、高岡さん、あなたじゃない、ということです」  沙也夏は反論の言葉を探した。言い逃れの道を探した。  だが、周到に用意された彼らの罠には、そうした抜け道は残されていなかった。  ふっと、脳裏にマックス・マリニのエピソードが浮かんだ。自分が先日講演会で話した、国会議員の夜会服にハートのキングを縫い付けさせる話である。  この写真は、あのマリニのトランプだったのだ、と思った。無駄に終わるかもしれないが、もしかしたら役に立つかもしれないと考えて、警察が縫い込んだカード……。 「つまり、あなたには、写真やちょっと見たぐらいでは区別がつかない、非常によく似た人が存在する——」 「まあ、そんな方がどこにいますの?」  彼女は殊更《ことさら》明るい声を作った。  もう惚《とぼ》け通す以外にない。 「ここ、この写真のなかにいますよ」  勝が、彼女の前に差し出した写真を上下に小さく振った。 「じゃ、私がその方に頼んで……」 「いや、あなたはこの人に何も頼んだりしていません。つまり、この人は、あなたの共犯者でもなければ協力者でもありません。これこそ、あなたの計画で最も肝腎な点だったわけですが、あなたは一方的にこの人を利用したんです」 「そんなことできますかしら?」 「できたんです。あなたは、その計画を考えついたとき、まずこの人に似せて髪を短く切り、それから実に周到に準備を進め、やり遂げたんです」  沙也夏は今度こそ反論の言葉を失った。警察は、完全に彼女の計画の全貌を見抜いているようだったからだ。 「ところが、あなたの計画にも、一つだけ陥穽《おとしあな》があった。それは、完璧すぎた、という点です。あなたと思われる女性は、二十八日の夕方、五時の青函連絡船に乗って函館から青森へ渡っただけではない。翌朝六時四十分にたしかに上野にいた、と判明したんです」 「でしたら、私にどうして土橋さんをどうこうすることなどできまして?」 「そうです、その女性があなただったら、あなたには土橋さんを絶対に、もうどんな策を弄《ろう》したって殺せません。しかし、我々は、犯人はあなたに違いない、と確信していた。としたら、論理的な帰結として、その女性はあなたではなかった、と考える以外になかったんです」 「…………」 「この写真の女性は、神奈川県厚木市に住む並木貞子さんです。あなたがこれまでに住んでいたことのある地を徹底的に当たり、捜し当てたんです。彼女は、先月末、既製服メーカーW社の招待ということで、W社から送られてきた列車の切符、宿泊券をつかい、三日間の道南の旅をした、と話してくれました。二十八日は午後五時の青函連絡船に乗って函館から青森へ渡り、ゆうづる6号に乗って、翌朝六時四十分に上野に着いた、という経緯もです。髪型、服装はあなたの申したてたとおりでしたし、連絡船のグリーン船室で座った席も、あなたが座ったと主張した席と同じです。  この写真は、彼女に協力してもらい、上野駅に停車中のブルートレインの前で撮ったものです。  これから、我々と一緒に来て、何もかも話していただけますな」  沙也夏は思考能力を失っていた。  言葉を口に出すことも、動くこともできなかった。  何が起きたのかはっきりつかめず、夢のなかを漂っているような、妙に不安定な感じだった。それでいて、何も見えない真っ暗闇の穴を覗いているような、恐怖があった。  気がつくと、いつの間にか、少し離れたところに笹谷美緒と黒江壮が応接間から出てきて立っていた。  ボォー、と連絡船の汽笛が鳴った。  沙也夏の脳裏に、この十数年間のさまざまな出来事が走馬灯のように去来した。  まず、夫・星昭芳を殺した、冬の寒い夜の光景から……。  殺したといっても、未必の故意だったのである。  星は研究や就職が思うようにいかず、結婚して二年目の秋頃から、酒を飲んで暴れるようになった。「こうなったのはみなおまえのせいだ、小説なんてやめてしまえ」と沙也夏に当たり散らすようになっていた。沙也夏はそんな夫を悲しく思いながらも、じっと堪えた。彼をまだ愛していたからである。  しかし、彼が、沙也夏が何ヵ月もかかってやっと仕上げた小説の原稿をずたずたに引き裂き、ライターで火を点けたとき、この人と一緒にいたら滅茶滅茶になる、自分の一生がだめになる、と感じた。小さい頃からの夢だった小説家になる道も閉ざされてしまう、と思った。  彼が午前一時過ぎに帰宅し、玄関で眠りこんでしまったのは、そんな出来事があって一週間ほどした、寒い夜だった。それを見て、沙也夏の頭に、このまま放置しておけば夫は凍死するか、心臓がどうかなって死亡するかもしれない、という思いが閃いた。逡巡の末、結局、彼女はそうなることを願い、また一方で恐れながら、彼を揺り起こすかわり、ガラス戸を細く開けておいたのである。  ところが、夫が実際に死んでしまったと知るや、彼女はどうしたらいいか分からず、当時、亀有に住んでいた小松崎に電話して相談した。  小松崎は、すぐにタクシーで駈けつけてくれた。  彼は、星の沙也夏に対する酷い仕打ちを知っていたので、死んでしまったものは仕方がない、と彼女の行為をあまり責めなかった。そして、玄関に放置したとなると、気づかなかったという言い訳が成り立ちにくく、殺人あるいは過失致死罪に問われるかもしれない、一旦ベッドに入ってからトイレに立って死んだようにみせたほうが無難だろう——そう言い、星の顔や手の汚れを拭きとり、靴を脱がせ、パジャマに着替えさせて、死体を廊下に移動させておいたのだった。  沙也夏は、段々落ちつくと、自分はなんてことをしてしまったのだろう、と後悔した。良心の呵責《かしやく》に苦しめられた。露見したら、と恐れた。  特に恐怖は、時間が経っても薄れなかった。だからその後、その恐怖から、苦痛から逃れるためにも、ひたすら原稿用紙に向かってきた。  こうして、努力に努力を重ね、ようやく現在の作家としての�地位�を築き上げたのである。子供の頃からの夢を、現実のものにしたのである。  しかし、それは、夫・星昭芳の屍《しかばね》の上に築いてきたものであり、今、やはり彼の死に起因する行為によって、崩れ去ろうとしているのだった。  一炊《すい》の夢。すべては、昔、唐の盧生《ろせい》が粟飯も炊《た》き上がらない短い間に見たという栄華《えいが》の夢のごとくに思われた。 「行きましょう」  勝の声に、彼女は我に返った。  エピローグ  翌日曜日の午後四時半だった。  美緒は壮とともに、沙也夏がアリバイ作りに利用した午後五時の青函連絡船に乗るため、函館駅の連絡船乗り場に来ていた。  二人を見送りに来た、勝と五十嵐と寺本も一緒である。  沙也夏は、昨日勝たちに促されて函館港湾署へ出頭し、そのまま土橋殺しの容疑で逮捕された。そして今、彼女が、弘田、小松崎、土橋の三人を殺した経緯を全面的に自供し始めたことを、美緒たちは勝から聞いたのである。 「また、黒江さんたちに助けていただきましたが、これでようやく解決を迎えられそうです」  勝が説明の最後に言い、微笑んだ。  つづいて、五十嵐も礼を述べ、寺本とともに頭を下げた。  沙也夏によく似た並木貞子の存在を理論的に突き止め、警察が彼女を捜し出す手掛かりを与えたのは壮だったからだ。沙也夏が鉄道についてはほとんど知識がないらしいと教えたのだけは、先月二十九日の朝彼女が清新社へ来たとき、ゆうづる6号をブルートレインと言っていたのをオヤッと思った美緒だが、それを利用して写真の罠を仕掛ける助言をしたのも、やはり壮である。  しかし、彼は、三人の刑事たちに頭を下げられても、例のごとく、恥ずかしそうにもじもじしているだけ。  その間にも、彼らの横を、修学旅行の高校生たちが、ぞろぞろと乗船改札口のほうへ歩いて行った。  それを見ながら、美緒は、初めて高岡沙也夏を訪ねてきたときのことを思い出していた。あのときも、彼女は帰り、大勢の高校生たちと一緒に青函連絡船に乗った。あれから、二ヵ月半近くが経ったのだった……。  勝の話によると、沙也夏の供述した弘田殺し、小松崎殺しの方法は、ほとんど壮や警察が考えていたとおりだったらしい。  新しいトリックの実験だと言って弘田をだまし、青森で知人に会ったと小松崎に電話をかけさせたこと、室蘭の解体屋から借りた車で函館駅まで迎えに行き、人気のないところで青酸カリ——取材を装って星の旧友の勤めているS大学農学部の研究室を訪ね、相手のスキを見て盗んでおいた——の入ったドリンク剤を勧めて飲ませ、死体をトランクに隠しておいたこと、その死体を、夜美緒と別れてから十一時三十五分発のフェリーで青森まで運び、夏泊半島の茂浦に捨てたこと、車はナンバープレートを剥がして青森駅に近い海岸の空地に放置し、午前五時二十五分の連絡船で函館へ戻ったこと。  小松崎の場合、調布市にある彼の自宅近くで帰りを待ち受けたこと、レンタカーに乗せてから口移しにアメを与え、舌をつかってすぐに飲み込ませたこと、翌朝一番の飛行機——カツラと眼鏡で変装し、偽名で乗った——で函館へ帰り、東京からの連絡を待っていたこと、など……。  なお、小松崎の死んだ日に土橋が上京していたのは、小松崎が会いたいと言っている、と土橋に伝えたからだという。また、翌日土橋が羽田に来ていて美緒と顔を合わせたのは、小松崎が殺された、と土橋から函館の沙也夏に電話があったため、羽田へ着くだいたいの時刻を知らせたかららしい。  次に、土橋殺し——。  これも、大筋は壮の推理と一致していたのだが、その具体的な計画、方法は次のようなものだった。  沙也夏が三人の殺害を考え始めたのは、土橋が三度目に彼女を訪ねてきた七月中頃。そして、計画をあれこれ練っているうちに、自分によく似た並木貞子の存在を思い出した。  彼女をうまく利用できないか、と思ったのである。  よく似ているといっても、血のつながりがあるわけではない。相手は、高岡沙也夏というペンネームはもとより、岡本邦子という本名も知らないはずであった。いや、自分と似た女がいるという事実さえ、記憶から薄れているにちがいない。沙也夏だって、殺人計画を考えるまで、ほとんど思い出さなかったのだから。  そうした条件は、沙也夏の犯罪にとっては好都合だった。貞子の行動をある程度コントロールできれば、誰にも——貞子自身にも——怪しまれず、自分の身代わりにし、完全なアリバイを作ることができる。  そう考えた沙也夏は、上京した折、小説家としてデビューする前一年半ほど住んでいた神奈川県厚木市を訪ねてみた。五年近く経つので、並木貞子が同じ家にまだ住んでいるかどうかは分からなかったし、たとえ住んでいても、容姿がだいぶ変わっているかもしれない。もし、そのいずれかであれば、彼女の利用は諦めるつもりであった。  沙也夏がなぜ貞子を知ったのかというと、厚木に住んでいた当時、三度も貞子に間違われたからである。そのうち二度は、貞子と顔を合わせたわけではないが、一度は沙也夏が間違われている喫茶店に、当の貞子がやってきた。といって、似ているのにお互いびっくりし、黙礼し合っただけで、自己紹介したわけではない。ただ、沙也夏は何となく興味を覚え、自分を貞子と間違えたマスターに、後で彼女の名と住所を聞き、それとなく家族関係や仕事などを調べておいた。  沙也夏は厚木の貞子の家が元どおりであるのを確かめると、彼女が以前勤めていた町田市のスーパーへ行ってみた。  すると、彼女はレジで忙しげに働いていた。沙也夏はサングラスをかけ、離れた場所に立って、貞子に気づかれないように観察した。貞子は、かつての長い髪を、ショートカットに変えていた。それが、沙也夏の髪型とまったく違っていたせいか、五年前に感じたほどには似ていなかった。だが、髪型や着ているものを同じものにし、同じ型のサングラスをかければ、知らない人間なら十中八九、自分と見間違えるにちがいない、そう判断した。  それでいて、別の恰好をして、別のところで暮らしているかぎり、貞子の知人が沙也夏の著書の写真を見ても、「ちょっと似ているな」ぐらいにしか思わない。  これが、最も良い条件だった。  その後、沙也夏は、貞子が五年前と同様に独身で、父親と二人で暮らしている事実を調べ、ますます利用し易い条件が揃っているのを感じた。  事は殺人である。ミスは許されない。失敗は破滅を意味していた。それだけに、沙也夏は、本で読んだマックス・マリニの用意周到さに学ぶことにした。成功のためには、どんな労力も惜しんではならない、と自分に言いきかせた。そして、まず、当分は著書に載せる新しい写真を撮る予定がないのを確認すると、貞子と同じ、ボーイッシュなショートヘアに髪型を変えた。  青函連絡船の利用を思い付いたのは、それから間もなくである。  彼女は、有名な既製服メーカーであるW社を装って、貞子にワープロで打った次のような文面の手紙を送った。  ——今回あなたを、当社、秋のキャンペーン・レディ三十人のうちの一人に選ばせてもらった。ついては、九月か十月に予定している北海道南部の旅行に参加していただけないか。細かな日時は未定だが、旅程は三泊四日(うち帰り車中一泊)。当社で用意した三組のワンピースやスーツ、ジャケットなどを一日ずつ順に着て(最後の四日目だけは前日と同じものを着用)、当社の用意したバッグ——それ以外の土産品などは宅配にする——を持ち、指定したコースを周ってくれればよい。三十人といっても、みなばらばらで、まったく一人旅と同じであり、誰にも気兼ねはいらない。乗る列車、船、飛行機と、泊まるホテルさえ指定どおりなら、あとは自由である。もし受諾してもらえれば、交通券、宿泊券の他に、お土産代として二十万円差し上げる。もちろん、バッグや着用したスーツ等は返していただく必要はない。諾否の返事は、一週間ほどして係の宮田が電話したとき、お願いする。そのとき、疑問の点があれば説明するが、それまでは、係員が多忙なため、問い合わせの電話には一切応じられない——。  この伏線のもとに、沙也夏が一週間後、係の宮田を名乗って電話すると、貞子は多少不安げにいろいろ質問してきたが、 〈手紙に記した以外の義務は後にも先にもない。ホテルや駅などで係員が、それとなくキャンペーン・レディの様子をチェックしているだけで、行動には干渉しない。断わるのは自由だが、もし断われば次の候補者が繰り上がるので、変更はきかない〉  沙也夏がそう答えると、彼女は、このもったいない申し出を断わる�勇気�がなく、承諾した。  あとは、時々電話で話しては、貞子が怪しんでいないのを確認し、完全に土橋殺しの計画ができ上がった十月初め、交通券、宿泊券、サングラス、旅行用バッグ、三組のW社のスーツ、ワンピース、ジャケットなどと一緒に、詳しい予定を書いた手紙を送った。  サングラスとバッグ、貞子が旅行の最後に着るワンピースとジャケットは、同じものをもう一組、自分用に購入しておいたのは、言うまでもない。  その後、弘田と小松崎を殺し、しばらくすると、土橋が、「警察に疑われ、見張られているようだ」と電話してきた。薄々沙也夏を疑い始め、会って話したいと言ってきた。どうやら、沙也夏を脅し、今度こそ完全な優位に立とうという魂胆のようだった。彼が何も言ってこなければ、彼女のほうから誘うつもりでいたので、それは好都合だった。そこで、沙也夏は、警察をうまく捲き、二十八日の午後五時五分の青函連絡船七便で函館へ来るように、と土橋を促した。  あとは当日である。  貞子は、沙也夏が仕向けた通り、大沼を午後三時四十二分に出る列車に乗り、函館に四時二十七分に着くと、まっすぐ連絡船乗り場へ行き、乗船改札が始まると同時に船に乗りこんだ。  そこで、沙也夏も同じ服装の上に大きなコートをはおり、襟を高く立てて髪型を隠し、貞子とはまったく違うサングラスをかけて乗船。中学生ぐらいの少年に千円与え、「W社の人が甲板で待っている」と貞子に伝えてもらった。そして、貞子が席を離れたすきに、コートを脱ぎ、サングラスを彼女と同じものに替えてグリーン船室に入り、千島夫妻(後で警察が突き止める手掛かりになる特徴をそなえていれば誰でもよかったのだが……)にわざとぶつかり、印象づけてから、貞子の席——窓際の前から六番目、後ろから七番目の席を指定しておいた——に座った。二、三分してトイレにでも行くような素振りで立ち、実際にトイレに入ってふたたびコートをはおり、サングラスを黒縁の眼鏡に替え、ふつうにセットしたカツラをかぶり、船を降りた。  これで、�高岡沙也夏が五時の連絡船に乗って青森まで行ったことは確実になるのだ�と思いながら。  次は、午後九時五分前に土橋が函館に到着してからの問題である。  自宅へ帰って近所の人に見られては、折角の計画が台無しになるため、駅前に駐めてあった自分の車を適当に乗り回して時間をつぶした。この間に自動販売機でウーロン茶を買い、缶に小さな穴を開け、注射器で中身を少量抜き取って青酸カリを溶かしてから再注入、穴を透明な接着剤で塞《ふさ》いだ。それを、冷えないように二つの使い捨てカイロにくるんで腰の後ろに隠し、土橋を駅前で迎えた。  啄木の墓のある立待岬まで一緒にドライブしようと思った、と言うと、土橋はちょっと怪しむ顔をしたものの、黙って乗り込んだ。  途中、ウーロン茶が飲みたいと言い、彼女がさっき買ったばかりの自動販売機の前で車を停め、土橋に二つ買ってこさせた。彼を行かせたのは、彼女が用意したり買ってきたりしたら、彼が用心するからである。  着いたら飲もうと言っておき、誰もいない岬の駐車場に車を乗り入れ、サイドブレーキを引いてシートベルトを外し、彼の首に抱きついた。  土橋はおどろき、反射的に腕ではねのけようとしたが、彼女はかまわず唇を彼の唇に押しつけた。舌を押し入れた。  すると、あまり女を知らない男だと思っていたとおりだった。彼はすぐに夢中になり、持っていたウーロン茶の缶を落とし、彼女を抱きしめ、舌の付け根が痛くなるほど強く吸い始めた。  しばらく彼のするがままにまかせてから、「ベルトを外し、シートを倒して」彼女がささやくと、暗いので表情は分からないものの、期待と欲望に息を荒くしながら、言うとおりにした。  その間に、彼女は彼の足元に転がっていたウーロン茶の缶を拾い、自分の座席に隠してあった一つと素早く替えた。  倒したシートの上で、唇の他に乳房をいっとき土橋の思うがままにさせ、彼が下腹部に手を伸ばしたとき、 「あとは、私のうちへ行ってからね」  耳元でささやいて、体を起こした。  そして、彼がシートを元に戻すのを待ち、 「喉《のど》が乾いちゃったわ、さっきのウーロン茶、飲みましょう?」  言いながら、二つの缶を取り、指で底に接着剤の小さな盛り上がりのあるほうを識別し、それを彼に渡した。  プルトップを引き開け、「乾杯」と言って先に缶を一気に傾けると、彼もつづいて飲み、呆気なく死んだ。  その後、手をつけていないウーロン茶の缶を開けて青酸カリを入れ、中味を少しだけ残して彼の指紋をつけた。その缶と死体を芝生の斜面まで運び、〈海に向かって腰をおろし、自ら毒をあおった〉ように見せる擬装《ぎそう》をほどこした。用意しておいた付け髭、サングラス、ジャンパー、帽子で男装し、七重浜のフェリーターミナルへ行き、車は駐車場において、身一つ、偽名で十一時三十五分発青森行きのフェリーに乗船した。  青森には、前日、八戸市まで行って借りたレンタカーを用意してあった。それを運転して東北自動車道を盛岡まで走り、午前六時十三分発の新幹線始発「やまびこ30号」に乗った。  レンタカーは、十分すぎる料金と鍵にメモを添えて駅前に乗り捨て、後で電話をかけて引き取らせた。  上野に着いたのは九時三十四分。三つの出版社に電話をかけ、社員が出てきていた清新社にタクシーで直行した。——  高校生たちがいなくなったところで、美緒は壮と一緒に乗船名簿を出し、乗船改札口を入った。  勝にはまた会えるが、五十嵐と寺本はもう二度と会う機会がないかもしれなかった。美緒が振り向いて手を振ると、若い寺本がはにかんだような笑みを浮かべて手を振った。  船に乗り、ジュウタン席に荷物を置いてから、デッキに出てみた。  午前の便だった九月のときとは違い、送迎桟橋《そうげいさんばし》には制服のバスの運転手とガイドたちが見送りに立ち、高校生たちが口々に言葉を投げ、ガイド嬢たちとの別れを惜しんでいた。  美緒は、彼らから沙也夏の住んでいた元町のほうへ目を転じた。  すでに、函館山の下にひろがる坂の街には明るい灯がともっていた。  美緒は、十数年前、沙也夏が夫・星昭芳を殺した事件に思いを馳《は》せた。  それが、今度の連続殺人事件の発端だったのだった。  美緒がふたたび桟橋に目を戻したとき、ドラが鳴った。  蛍の光のメロディが流れ始める。  今度こそ、本当に青函連絡船に乗る最後の旅になりそうだった。 「なんだか寂しいわね」  美緒が言うと、壮がうなずいた。  事件も沙也夏も、すでに冬が訪れている函館の街も、青函連絡船も……すべてが美緒を無性《むしよう》に寂しくさせていた。  ボォーッ、という長い汽笛の音。  ボォォー、ボォォォー。  大きな船体が、ゆっくりと桟橋を離れ始めた。 (了) 〈作品中の列車、船、飛行機のダイヤは、一九八七年九月号、十月号の時刻表に拠《よ》っています。また、マックス・マリニに関する部分は、松田道弘著「とりっくものがたり」筑摩書房刊、を参考にさせていただきました〉 本作品は一九八八年一月、小社より講談社ノベルスとして刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九一年四月刊)を底本としました。